海外ドラマを観ていると字幕と実際に役者が話している言葉の長さが明らかに違うときがよくある。
私は英語は高校受験のために必死でやって以来、その運用のみで通してきたので事実上、ほぼ、できない。
そんなレベルでも聞こえてくる単語を直訳したものと画面上のテロップは、意味こそ違わないけれどこれはざっくりこんなことを言っているんだという意訳なんだとわかる。
『もうアシスタントではなくて、今年からはもうすでに編集者として働いているの。』
中学生のテストの解答用紙に書くのだったらこんな台詞も
『ああ、今は編集者なの。』
になっている。
そして、その方がわかりやすい。
言いたいのはそこなんだから。今の仕事は編集者になってるんだよってところだから。
会話っていうのは感情と情報のやり取り。
自分の中にあるものを交信し合うときに使う手段の一つが言葉。
事細かに伝え切ったと自分が満足するまで言葉を重ね、たくさん喋る人。
ひとつ単語をつぶやいて、わかるだろう、わかってくれと思う人。
ありがとう、という意味合いを含めて「うむ」という人。
嬉しい、の代わりに「あらやだ、どうしましょ」という人。
感情重視で自分の感情も相手のも、できるだけ理解し合いたいとする派。
情報重視で、必要なことを知りたいだけで、疑問点、感想を述べるが他意はない、が、ときに誤解を招く派。
けれど、その気持ちを表すときに選ぶ単語やフレーズや喩えや言い回しには個人差がある。
それが引き起こした行き違いは、きっと気づかぬうちにたくさん起きている。
そのズレが浮き上がってきたとき、びっくりしたり悲しくなったり感動したり。
その人独自の信号のようなものかもしれない。
照れ屋だったり、恥ずかしがり屋だったり、面倒くさがり屋だったり。臆病だったり。
気質によって選ぶ単語も語数も違ってくる。
本を読んでいて、内容はいいのにいまいち合わないと感じるのはそういうことなのだろう。
そう考えると、字幕を誰がしたか翻訳を誰がしたかによって海外の作品の中の登場人物のキャラクターの認識も受け手には影響するんだなあ。
夫のよく使うあの「ヒーン」も、うまく言葉を探せないけれど、ごめんよぉ許してぇ、のような意味合いを含む。
そして私の使う「ふざけんじゃねぇっテメェ」は、もう勘弁してよ、まったく。という意味なのだ。
夫に限らず、母、姉、友人、テレビの中にいる人、作者、その相手の放つ言葉が時々自分に向かってグサッと刺さる時がある。その発言で全てを推しはかり悲しくなったりしたこともあった。
けれど、言葉を道具だと捉えたら、その奥にある、発しているニュアンスと感情と情報の全体像みたいなものを汲み取れたら。
もっともっともっと、豊かな世界で生きていける。
音楽や絵画などはそんなものを飛び越えて直に心に響く。
誰かの発信したものをキャッチするのもそんな意識を持つと世界は広がるんだなあ。