決戦の日 その2

ぴたりとおとなしくなった息子は翌朝、また動きだす。

時刻は5時半。

約束したよな。さあ、出してもらうぞ。

「おはよ。待ってくれてありがとね、さあ、今日、頑張ろうね」

まだ寝ている夫をそのままに、風呂に入る。

それから静かな部屋でひとり、昨日買った菓子パンと牛乳をお腹いっぱい食べた。

これから力仕事、食べとかないと。

隣の家の玄関から父と母が出てきた。偶然この日に限って父は早朝からゴルフに行くところだった。

父を見送った後の母が顔をだす。

「お父さんが、いよいよじゃないですかって言ってたけど、産まれるの?」

朝早くからシャッターが上がり灯りのついているのを、勘のいい父が察したのだった。

そこから夫を起こし、まとめてあった入院グッズを持ち、車で病院に向かう。

不思議とこういうとき、気持ちは落ち着く。

むしろ夫の方が興奮し、今日は会社を休むと言うのを「こんなことで休むな、行け」と偉そうに言っていた。

病院に着くと待ち構えていた車椅子に乗せられすぐ診断。

「多分、今夜あたりかなあ」

そのまま、すでに混雑していた陣痛室に運ばれた。夫と母とはここまで。

大学病院での出産は厳しい。病気じゃないんだからということなんだろう。

一方、息子はもう出る気満々である。何しろ前の晩から待っているのだ。

これ以上、夜までなんて待てないとばかりにググッ、グググっとものすごいピッチで下がってくる。

出産初心者にもその意志ははっきりとわかり、これはもう、割と早いなとぼんやり思う。

昼ごはんが出された。お腹が痛くて起き上がれない。お腹が空いているのかすらもわからないが、なんでもいいから食べないとと、手探りでトレーを探り、ブドウと、パンを口に入れた。

何度か先生が検診にくる。

しかし、混んでいたため大部屋の隅に用意された臨時ベッドにいた私まで気がつかず、何度も通過される。

苦しくていきむと繋がれているモニターの心拍が一瞬、止まりそうになる。

この波形は私の心臓なのか、息子のものなのか。

イキんで胎児に酸素がいかなくなっているのかもしれない。

なるべく息を止めないようにしないと。

大病院にいるというのに孤独の戦い。本当に産まれそうになるまで大騒ぎしてはいけないと思い込んでいた。

ぐぐ。

グググ。

息子は着々と降りてくる。

約束したもんね。今日って言ったもんね。

こ、こいつ、相当、頑固だ、言い出したら効かない子だぞ、こりゃきっと。

昨日の今日でもう、待てとは言えない。しかし、先生がこない。

なんか、もうじきの気がするんだけど。どうしよう。

いよいよとなったらこのボタンを押して呼ぼう。

簡易ベッドに繋がったブザーを握りしめる。

その時、足元の引き戸がそうっと開いた。

よかった、先生が来た!

「トンさ〜ん。どんな感じ?」

夫がおっかなびっくり覗いていた。こっそり他の妊婦達の家族は病院側にダメと言われようとベッド脇に待機していたが、夫も母も外にいた。私が気が散るから来なくていいと言ったからだ。

「お袋さんが、ちょっと覗いてきなさいって言うから、来ちゃった」

いいとこにきた。でかした夫。

「さっきから陣痛が強くなって・・・もう・・出口にいる・・もう出てくるから・・ちょっと・・先生・・呼んで・・」

ところが息も絶え絶えの妻の姿に動揺した夫は

「え、え、どこ?どこ?」

その場で固まる。

「そこっ!その隣の部屋に先生たちがいるから!」

「え、なんて名前の先生?誰を呼べばいいの?」

「もうっ、誰でもいいんだよ、とにかく呼んで!」

「今?もう呼んじゃっていいの?」

「いいっ!今!もう、早く!出てちゃうってば!」

「え、え、なんて言えばいいの?」

「生まれるって言えばいいんだよっ!」

陣痛室に威張り散らす私の声は響き渡っていたと、これも後日、妊婦仲間から聞かされた。

(もひとつ続く)