研究は終わらない

私は私のシナリオ通りに生きている
人の体験談に揺れ動かないで
そのままそのまま。そのまま進んで
色々心配しないでいいんだよ
自分に。今、自分に言い聞かせてる。小学生の頃、あんなに気が強くてあんなに元気であんなにまっすぐだった私にしがみつくのはもうやめよう。私は、今。私は今、ここでこうやってる私しかいない。瞬間の私が繋がっているのではなく、瞬間の私しかいないのだ。記憶を辿ってみて、懐かしがって昔の自分に会いに行っても、そこに私はいない。妄想の中の子供だよ。私のいま目の前のもの。それが私の現実。毎日、毎瞬ちょっとづつ何かが違う私がいる。
だから怖がらなくていい。自分を塗り替えて行くのではないんだよ。新しい私が毎瞬生まれてきてるの。まっさらな。まっさらな私が。
怖がらないで大丈夫。

 

パソコンを整理していたら2017年に自分新聞と称して自分の記録として作っていたファイルが出てきた。

今よりもっと生きづらくて、自分を励ます言葉を自分に向かって書いていた頃のものだ。

不意に出ててきたこれに、時空を超えた私が今、慰められた。

 

 

一昨日の夢中になっての自由研究が祟って昨日今日と体がいうことを聞かない。

夢中になっている時は楽しい。

もっと探求したい、記録して、それを表にしてみてと、お遊びの発想はどんどん膨らみ、意欲的になってくるのに体はそれについてこない。

あぁ。

やっぱり私は、他の人のように何かに没頭したりすることはセーブしないとダメなんだなあ。。とガッカリする。

何にもしない自分を持て余すのはどうしてだろう。

学生時代は1日に意味なんて見出さずに呑気に過ごしていたのに、いつからだろう。

頭のどこかの片隅でいつも自分をジャッジする私が覗いている。

母から認められたいという願望からやっと自由になったというのに、もっと強力な奴が私を見つめている。

向上したい私は、私自身に認めてもらえる日を目指し、休むことをよしとしない。

熱が出れば、倒れたら、それは仕方ない。

そうなって初めて安心して昼から布団に入ることができる。

今日は仕方ないよねと、ほっとしている。誰も責めたりしないのに。

自分の異常さだと思っていた。

とにかく、何かしようと時間を埋める何かをいつも探している私。

 

昨日読んでいた本にブッダの言葉を解説してくれているところがあった。

いろいろ書いてあったが、私の小さな脳味噌に一つ衝撃を与えてくれたのは

「人は元々、欲からは逃れられないようにできている。向上したいという欲。もっと上にもっと上にという欲は、どれだけ成長してもまた新たに湧いてくるように、人間はできているものなのだ。」

そうなんだ!

ハラハラと何かが解けていくような気がした。

「だからそれに追われることなく、自分がその希望を持っているということを意識するだけで良い。」

では、意識して、それからどうすればいいの。

「一旦意識したらそれを忘れてあとは、心地よく過ごせばいい。我慢もいやな努力もせずにただ、自分が心地よくいい気分になることをしていればいい」

そんな意味合いだった。

向上したいという想いは人の摂理。ああ、湧いてるな、、と思っていればいいのか。

向上しなくては、向上せねば。何かしなくてはとあくせくして自滅を繰り返してきた私には救われる言葉だった。

実を言うと、このブログも、こんな個人的な心の内やどうと言うことのない家族とのやりとりだけをだらだら書いているだけで、読む方にはおもしろくもなんともない。

いいのか、もっと有益な情報を織り込んだり、読み物として面白いものにしていかなくて・・などと思い始めていた。

ああ、ブログにも向上の欲が湧いているんだな。

一旦「そうなんだな」と思った上で、やっぱり自分が楽しめるペースで口調で、文体でもうしばらく書き続けてみよう。

体力も、こんなんじゃダメだと、時々体重を増やしたくて食事を増やしたり運動してみたいりとあくせくするのも、人として自然な現象なのだ。そう認識した上で、しばらく心地よい暮らしを追求していこう。

自由研究のテーマは低温調理じゃない。

私を心地よくさせる方法。

心地よい気分を持続させる方法。

何が好きなのか。

何に心が休まるのか。