辛い

なんか悲しいなあとおもってしまうのだ。

大谷選手はもちろんだけど、本人も辛かったろう。

ちょっとした嘘と油断と隙と心の状態、だれにも理解されない苦しみ、背負いすぎたなにか。それらがこんがらがって知らず知らず彼を追い詰めていったのかもしれない。

もちろん、言い訳にもならないし、いけないことはいけない。

けどなあ。そういう間違った方にいってしまうことの危うさは私自身にもあるような気がする。

奥さんも知らなかった。今、彼女の衝撃もそうとうだろう。

親御さんは。お母さんはどんな思いでこの毎日、起きて寝て、暮らしているのか。

みんながかわいそうだ。

なんとかみんな、良い方向に向かうといい。

彼自身も、ここで潰れないで時間をかけて社会からの信頼をとりもどしてほしい。

「かわいそうだなあ」

「けしからん」

声が重なって夫はちょっと嫌な顔をした。

そう。いけないことはいけない。責任もとらないといけない。叩かれるのも自業自得。

嘘はいけない。

ちょっと小さな嘘をつかれただけであれだけ動揺して夫を責める。

嘘は人を傷つける。

二人して可哀想がる夫婦じゃなくてよかった。

どっちかが感傷的になった時、かたっぽは現実をみている。

あの二人もいい相棒同士だったのに。なにかが狂っただけなのに。

もしや迷惑

息子が荷物の整理がてら泊まりに来た。年度内に消化しなくてはならない休暇が残っているので月曜に帰るそうだ。

「月曜が古着の買取キャンペーンの最終日なんだよ」

なんだかんだいっても家に帰ってくる。よいよい、ゆっくり移行していけばいいのだよ。

夫は大はしゃぎで、嬉しいね、楽しみだねと週半ばから楽しみにしていた。

それを冷静な視線で見つめる妻。

こちらは持たせようとちょこちょこ、冷凍食品を拵えていた。

実のところ、いつ急に来てもいいように、体調の良い日の午前中、せっせせっせと備蓄していたのだった。

冷凍保存用のビニール袋に炒め野菜だの生姜焼きだの煮込みハンバーグだの、バリエーション豊かにたまっていく。せっかく作るのだから好みの味付けのものでないと。残して処分されたくないと、ついつい甘々で、息子が喜びそうなものばかりが出来上がっていく。

うすくぴっちり空気を抜かれカチカチに固まった袋が、まるで書類が保管されているように冷凍庫に並んで収納されている。

ほぼ、それで占めている。今現在の我が家の冷凍庫は。

夫の食事にそれらを使うのはもったいなくて、毎日毎日べつに用意した。

こっちはこっちで野菜をたくさん、そして多少、乱暴な味付けだろうと構わん。

なんのカッコつけなのかわからないが、あたふたやっているところを見せずとも、帰り際、ほれ、と渡してやりたい。なんてことないことかのように。

それが、崩れた。

昨日、日曜の晩、夫は明日から仕事、息子はもう1日休みなのでのんびり。ピザをとっての宴会だった。

「明日、特に荷物はないよね」

息子が言う。

防災用の三日分の食料のキットを買った。それが届いている。しかし段ボール箱で重いのでこれは宅配便で送ろうかと話がついた。

「あと、冷凍の食事があるからもってきなさい」

母親ぶって、母親らしく、サラッと付け加えた。

「あ、あれ、いいよ、ちょっと寄り道して帰ろうかと思ってるから」

え?あ、そ、そうなの?

「ああ、そう。じゃあ、また今度でいいね。まだまだ大丈夫だから」

動揺を隠し、答えると

「うん、でもまだあるから。あれあると、急いで食べないとって気になるから」

あ、ああ、そうなの。。冷凍だから急がなくていいんだけど。っていうか、多少、保存期間すぎても大丈夫なように、わざと、冷凍にしてあるんだけど。

これらを飲み込み

「ああ、そうなんだ。じゃあいいね」

とこれまたサラッとなんてことないように答えた。

作りながら、これ、いつまで続けるんだろう。いつまでもこれじゃあなあ。とも思っていたのに。それは突然やってきた。

もういらない。

ほっとすると同時にちょっとがっかり。

がくっときたと同時に、ちょっと安心する。

引っ越して二ヶ月。そりゃそうだ。

もう彼の暮らしの基盤はできあがったのだ。

夫よ、よろこべ。しばらく、ハンバーグだの生姜焼きだの、続くぞ。

あったかいほうじ茶

ラジオ体操が終わって帰ろうとしたら呼び止められた。

みんなの前でお手本をする人が大きな広場のあちこちに立っている。

私はいつからか、いつも定位置に決まって集まる可愛らしい五、六人のお婆さんたちの後ろにそっとついてやるようになった。

呼び止めたのはおばあさんたちではなく、その前でやっている60代の女性だった。

「会長さんが気にかけてて。ちょっと来てよ」

彼女とは時々、どうでもいい世間話はしていた。どうやら町内会の係かなにかの人なのだと勝手に思っていたが、会長さんとは。

なんの会長さん。町内会長さん?あの見知らぬ女はどこの誰だという話になったのか。

「会長さんが心配してるから。話せば大丈夫だと思うから、紹介するわ」

心配?

公園中央の円形花壇に連れて行かれる。

「会長、おはようございます、この前話していた、彼女、え・・・っとトンさんだっけ、そう、トンさんです」

なんでもこの人と立ち話をしているところを見かけ、あの人は誰、すごく痩せてるけれど大丈夫なの、病気なのと尋ねたらしい。

「こう見えてこの人、喋るとさっぱりしてて話しやすい人だから、説明するより会えばわかると思って連れてきました」

会長さんはニット帽をかぶって青いシャカシャカのウィンドブイレーカーを着た長身のお爺さんだったが、優しそうな目がメガネの奥で笑っている。あ、この人好き、とすぐ思った。

「いやいやいや、わざわざごめんね、ちょっと気になったんだよ、あんまり細いから、ごめんね」

低くゆっくり話す様子もなんとなく素敵。

「いえいえいえ。いまにもポキっといきそうですもんね」

笑って答えると、お手本女性が割り込んだ。

「ね、私もこの風貌だから声かけるの迷ったんだけど、声かけたら全然違って、面白い人だったから」

そうか、自分では見慣れているけれど、私は遠目から見てもギョッとするほど痩せているのか。

「おい、ミス、ミセス、どっちだ、ミセス、トンか、おめえお茶、飲んでけ」

ベンチに座っていた長老が紙コップを差し出した。

受け取っていただく。

あったかいほうじ茶だった。

町内会の集まりではなかった。

気がつくと輪の中に、去年通い始めた頃、ラジオ体操のやり方がプリントされた用紙をくれたイチイさんもいる。

あの時はただの世話好きなおじさんと思っていたが、ちがう。どうやらここはただのお気楽な集まりではなく、きちんと組織化された集団で、ここにいる人たちはその運営側のトップ。

あの怪しげな新入りは何者か。

怪しくない、怪しくない、ただの中年女です。今後とも隅っこでやらせていただきます。どうぞよろしくお願いいたします。

お茶はあったかく、人もあったかい。

ちょっとホクホクした朝だった。

今そのまんまの私が迎え入れられた。