今年は孫ちゃんの豆まき、ないわね。
レンコンの揚げたのを持って行ったとき、帰り際、母が言った。
「そうね」
あえて、なんてことないことのように返した。
「ねえ」
もう一度、母がいう。
「そうね、今年はね」
私も、そういうことですね、といった風に、当然そうですねと笑顔でいい、くるりと背中を向けて帰ってきた。
節分。息子が家を出て初めての節分。
去年までは母のところも我が家も彼が豆を撒いていた。
大人ばかりのこの家で毎年「ふくわーうち」と声を出す。さすがに恥ずかしいので大声を張り上げず、仏間と、勝手口と、玄関をささっとやるだけなのだが、毎年、必ずやっていた。
亡くなった父がこういうことが好きな人だった。
私たちが小さかった頃はもちろんのこと、娘二人が思春期になろうと成人しようと嫁に行こうと、母を後ろに従え、豆をまく。
おにはーそと、ふくはーうち、と、父は近所に響き渡るような大声を出して、本気で鬼を追い払った。飲んで帰ってきても、先に済ませてしまうと機嫌が悪くなる。酔っ払ったご機嫌で更に大声を張り上げ、撒くのだった。
恥ずかしいからもっと小さな声でお願いしますという母も、必ず、父の後ろをついていた。
翌朝、「今年もご主人の声が聞こえたわ。うちの分まで鬼を払ってもらったわ」と笑われたと、嬉しそうに文句を言うのだった。
結婚して、二年目、実家と二世帯が始まった。
父の病気が再発した頃だった。私はなかなか子供に恵まれず、流産もした。その間も父は父として、両家に豆を巻く。私と母が後ろをついて歩く。
息子が生まれた。ベビーベッドのある寝室に父はやってきて、やはり豆を巻いた。
それからはちび小僧が隊長の跡をついてまわる。夫も加わる。
三人が盛大に豆をまく。
父は嬉しそうだった。
父が亡くなった。夫が引き継いだ。
夫と、ちびっ子が両家を練り歩いた。
何も言わなくとも、その日はやりくりをつけて夫は早く帰宅した。
ちびっ子もやがて思春期を迎える。
「俺はやらない」
今度は夫と私が一緒に撒いた。
二人で家の厄払いをする年が長く続いた。
夫の単身赴任が決まった。すると、反抗期を終えた息子がこれを繋いだ。
恥ずかしそうに、照れ臭そうに、おにはーそと、と出す声は、まっすぐな青年の声だった。
夫が戻ってからも息子の仕事になった。
母は、孫が現れると喜び、ちょっと年寄りぶって、甘える。
私は遠慮して行かない。母の甘い甘い時間なのだった。
豆を巻き終わると、仏壇に手を合わせる息子の目の前に小さな袋が置いてあり、お仕事代と母の字で書いてある。お小遣いがそこにあるのだ。
来年もばあばのとこに来てね、そういう願いと喜びがお金と一緒に入っている。
「たった数分ですごい時給だね」
私はからかうのだった。
その息子が家を出た。
私も今年はどうなるのだろうとぼんやり思っていた。
父が単身赴任中だった頃、留守中の家を母が訪れると、パラパラと豆が床に転がっていたのを見つけ、胸が締め付けられたと言っていた。
一人、寂しがり屋の父が、撒いた姿を思い浮かべると、たまらない想いがしたと、何度も言われ、私も切なくなった。
その節分、今年はどうなるのだ。どうするのがいいのだ。
夫に頼めば「いいよ」とやってくれる気もする。しかし、母は夜、何時に帰ってくるのかわからないで待ってるのもしんどいし、来てもらっても気を使うだけだし、やらなくていいわよと言う。
やらないのもなあ。私がなんとなく引っかかる。
それではと、アタクシが出て行ったところで、それは、母の望みではいない。
それは、確かなことなのだ。