お気楽に磨きをかけてゆくのだ

期待に応えることをやめることにした。

これは私をすごく自由にした。よくよく考えたら勝手に期待に応えて役に立つ人間だとアピールしたかったのは、おそらく自分自身に対してなんだと思う。

私自身が私を役に立たたずだと、そうしていたんだ。

たとえ誰かにそう言われたとしても、それは違うと自分が心の底からブレることなく思うなら、それは私にとって事実にはならないはずだ。

私は次女だが、「あなたは長女よ」と言われても、たとえそれを母が言ったとしても「いやいや、お母さん、それは違うでしょう」と受け取らない。

私は女性だが、「あなたは男なのよ」と言われたとしても、「いえいえ、私は女です」と気持ちは揺れない。

揺れるとしたら、なぜそんな妙なこと言うのだこの人は、と、そっちだろう。

それが、役に立たない人間だと言われたり、馬鹿だとか垢抜けないとか、そういう目に見えない曖昧なことに関して断定されるとぐらつく。

え、そうなの。私ってそうなの。世間ではそういうことになってるの。

そこを間違えていたんだと思う。

いや、違う。実際そうなのかもしれないから。心当たりがあるから揺れたんだ。

間違えたのは、だから人間として劣っていると、自分自身を恥じたこと。

役立たずは生きている資格がないと、私自身が私自身にそんなメッセージを送り続けたこと。

そうでーす、役に立たないし、垢抜けないし、何やってもダメなんでーす。

でも私は可愛いんでーす。

ってヘラヘラ陽気に笑うおおらかな道もあったのになあ。

間違った。

期待に応えるのをやめ始めた最近の私は、時々、姉や母をムッとさせる。

皮肉かな冗談かなとよくわからない微妙なからかいをされる。

えへへへと、自然とおかしくなって笑っている。

ちょっと揺れる癖はまだあるが、ほぼ、だいぶ、笑っている。

母も笑う。姉も笑う。

そうして家族も生活も続いていく。

神経を張り巡らさない。

自分にゆるく、甘く。とことん許す。とことん可愛がる。

完璧じゃないのが私。

自分にピリピリしなくなったら毎日が気楽になった。

気楽っていい。