不意に口から出た

息子が正式に賃貸契約をしてきた。

なんでも親掛かりで世話してもらってきた自分には、自分一人で事を進めていった彼をすごいなあと思う。

夫は自身が大学の時に一人暮らしをしているので、そんなものだと思っているようだ。

当たり前のことだが、引き渡しの日は毎日じわじわと確実に近づいている。

子供の頃からそういうのがピンとくるのが遅かった。

小学生の時も中学も卒業が近付いて胸がざわついているのに、どこか現実味がなく、式当日も友達とはしゃいだ。

啜り泣く友人を慰め、手を振って別れてもまだそれがどういうことなのか把握していない。

春休みになってもわかっていない。

そして新たな生活が始まり、ひと月ほど経った頃、もうあの仲間たちと過ごすことはないのだと愕然とする。

卒業式で泣いていた彼女たちはもうすっかり気持ちを切り替え、前に進んでいるとき、私は狼狽え、後ろを名残り惜しむ。

あれと似ている。

おはようと寝巻きを着て降りてくるのも、テーブルでスマホ片手にテレビを眺めているのもまもなくこの家から消える。

私はまた、息子の荷造りを面白がり、引っ越しの手配をハラハラと見守り、彼が家を出ていく朝も「いってらっしゃーい」といつものように見送って、帰ってこないことにびっくりするのかもしれない。

 

…隣の駅だってば。大袈裟な。

 

昨夜、三人揃って契約完了を祝って乾杯をした。

息子が紙袋を差し出す。

「母さんにこれ」

子犬の刺繍のしてあるタオルハンカチだった。

「この犬、あれと一緒の顔してる!」

息子が小学生の時に私に買ってくれた小さな犬のぬいぐるみがある。

ふわふわと心地いいので、寝る時のアイピローがわりに乗せている。

その犬とブチの具合といい、口の半開きといい、よく似てる。

「あなたがいなくなって寂しくなったら、私、あのぬいぐるみと、このハンカチ、眺めるんだわ」

不意に口から出た。

そんな夜が来るのだろうか。

今はまだ部屋が広くなる、食事の支度が楽になる、肩の荷が少し軽くなると楽しいことしか見えてこない。

息子の方は、珍しく母が「寂しくなるかも」と呟いたのを聞き、少し満足そうだった。