途中でやめてた本を期待せず再開したら思ってたほど大外れでもなく、さりとてやはり夢中になるほどでもなかったがなんとなく読み終えた。作者には失礼なことだが、なんとなく時間を過ごす本。
美容院や銀行の待ち時間、持て余してそこに置いてある雑誌を開く。
普段買わない、けど、ちょっと読んでみたい。飛ばし飛ばし気になる記事だけ拾い読む。
その数分、それでも結構な情報に触れ、ほぉ〜、世の中そんなことになってるのかなんて引き込まれて面白おかしく時は過ぎる。
それなりに、過ぎていく。
それでいいのではないか。
本も美術館も展覧会も、芝居もドラマも全て。
「あなたはなにを与えても何にも残らない。損した。」
子供の頃よく母に言われた。絵を見せて帰る電車の中、どうだったと聞かれダビンチの繊細さを語る姉の横で、お茶したケーキの美味しさを言う私にうんざりする。
本を買ってやっても一回サラッと読んだら「欽ドン!」に夢中でゲタゲタ笑う次女。
がっかりなのだ、親としては。
知らず知らず、何か身に残るようでなければいけないんだと思っていた。
飽きっぽく、理解に乏しい自分にとって、読書も絵画鑑賞も、ちゃんと感動し、深い視点での感想が言えることこそが大事で、そうでなければ意味がない、どこか、教養を備えていくツールのような、そんなものになっていた。
なんとなくでいいじゃないの。
なんとなく興味を持って手に取る。なんとなく買って、なんとなく読む。よくわからないけどわかるところもあって、なんとなく読み耽る。
知識が増えて誰かに発信もしない。
なにも残っていない。ぼんやり頭の片隅にそういえば誰か、こんなこと言ってたなあとあるか、ないか。
そんなんでもいいじゃないか。
本も絵も観劇も全て。
高尚なもの、自分を高めるもの、そんな物差し、私の世界ではもういらない。
「ん?」くらいに引っかかったモノことと、自身のタイミングが合えば観たり行ったり読んだりしてみる。責任を負わず、ふらふらと。
それが自分の実になるものなのかとか、低俗で恥ずかしいものなのかなんてどうでもいい。
50も過ぎた。
カッコつけず見栄も捨てて、自分中心にいけばいい。
好きなようにこの世界に転がっているものを拾っては眺め、拾っては眺め、時々、これはいいもの拾ったとホクホクし、そっと心の宝箱にしまう。
そんなんでいいじゃないか。
そしてそれらはテレビで紹介されてなくても、話題になってなくてもいい。
ニッチにニッチに。
私のツボにはまるなにかを探すのだ。