幅への道のり

 人としての幅をひろげるべく、読書にいそしむ。

途中まで読んで、なんか違う、なんかつまんないと放り出したものを引っ張り出して開く。

そう、自分の理解できない共感できないものにこそ私を広げるなにかが詰まっているのかもしれない。

SNSのつぶやきに、読書と移動距離と出会う人間の数はその人格の幅に比例する、というのを見つけ、いたく感心した私は己を恥じた。

読みやすい本、内容の軽い海外ドラマ、半径500メートルの行動範囲、会話をするのは顔馴染みの宅配と生協のお兄さん、家族、数少ない友人とラジオ体操での顔見知り。

こんな小さな世界からおおきく広がったところに出て行こうとしないのはまあよしとしても、こんなことでは思考までもが小さく凝り固まってしまう。

心と思考だけは無限に広く。そうでありたい。

理解できないものに触れることこそ、見知らぬ思考回路に触れるとうこと。

と、放置されあやうくブックオフに持って行くつもりだったのを持ってきたのだった。

日曜日、陽の差し込むリビングに寝っ転がる。

そもそも本を読もうと言うのにこの姿勢からして間違っている。

けれども朝の散歩で足がだるく、ゴロゴロしたかった。

つまらないはずの本は、つまらないと思って読むと割とおもしろい。

私はなにごとにもすぐ期待してしまう。

ドラマも映画も本も、きっとおもしろいぞと思って挑んでしまう。

大谷翔平選手だって、毎回大ヒットではないというのに、素人読者が勘で選ぶ本がそうそう毎回心を打ったり、響いたりするはずもない。

「ひとつでも、ああこのレシピいいなと思うのがあればその料理本は買って正解」

いつかラジオでだれかが言っていた。

それと同じで1行でも、ああ・・と心に残る文章に出会えたらめっけもんなのだ。

海外ドラマの中でもときどき、あ、これ・・と響くセリフがある。

でもそれを求めて観ているのでもなく、ただただ、くだらない日常のドラマを眺めるのがたのしい。

読書もそんな感じでいいのかも。

背中に日光が気持ちいい。ページをめくる。

ぐいぐい引き込まれることはない。ちょっと難しい。でもときどき、へえ・・と頷く。

気がつくと半分以上読んでいた。

そして気がつくと、寝ていた。

わたしの幅はそう簡単には広がらない。