歯を抜いた。
正確に言うと、抜歯後に残っていた根っこの部分が伸びてきたのを抜いた。
これのためになんとか体調を戻さねばならぬと必死だった。どうにかギリギリ間に合った。
私の持病のために歯医者さんが医療センターの主治医に何度も連絡をとって打ち合わせをしてくれた。たかだか歯を抜くだけなのにと恐縮する。
手紙を書き、電話をし、書類のやりとりもしてくださったのだ。当日、具合が悪い時は無理せずキャンセルしてくださいと言われていたが、申し訳なく、なんとしても決行したかった。
前日夫にそのことを告げると眉毛をペロンと下げている。この人は痛いのは怖いのだ。健康なので普段ほとんど医者にはかからない。予防接種も緊張する。内視鏡検査にいたってはあきらかにしょぼんと元気をなくす。親知らずを抜いたときは、顎がりっぱでひと針も縫わなかったがそれでも帰宅するなり布団をかぶって寝た。それでも夕飯も翌朝もしっかり通常食を通常通り食べた。
「それって切るの?」
「しらない。埋まっているところはそうするみたいよ。それより、明日はさ、しんどいから夕飯なにか買ってきてもいい?」
「いいよいいよ、そうしなさい。帰ってきたらなにもしなくていいから。お弁当だってなんだっていいから」
やさしい。
だけどなぁ。嚢胞切除手術のときや、尿路結石のときのほうが私にしてみれば大変だった。
骨盤の骨折も。心不全も。あっちの方が数倍しんどかった。
おそらく自分の想像できる範囲を超えるとよくわからないのだ。
今回は自分が抜歯の経験があるから、なんだか普通のより大変そうだ、あれより大変なのだとイメージが湧くのだろう。
当日、抜いてもらった。小さく四つに割って、少し、切り込んで、ギシ、ギシっとゆっくりネジをまわすように丁寧に丁寧に、あっちにこっちにと先生は向きを変えてやってくださった。
始める前に血圧を測る。低血圧なので上が94だった。
看護婦さんが怯えるのでこれが自分の絶好調の数値だと説明する。
終わって再度測る。
上は102になっていた。
「緊張したみたいですね」
二人で笑った。
それから別室に移り、先生から説明を受ける。
今夜の注意事項、考えられる危険な兆候、これがあったら予約なしでも来るように、など。
「じゃ、こんなところかな・・・なにか聞きたいこと、ありますか」
「えっとビールは、明日は飲んでもいいですか」
先生は「お酒好きなんですか」と大笑いする。
「はい。明日から連休だから・・・最近飲めるようになって、あのフワッとした感じが好きで。って言っても缶ビールひとつで出来あがっちゃうんですが」
「私も好きなんですよぉ。強くないんですけどあのフワフワした感じが、いいですよねえ」
距離が縮まった気がした。
帰宅するとテレワークの夫がまた眉間にシワをよせて降りてきた。
「大丈夫?もう今日と明日は寝てなさい、言ってくれたら父さんがやるから」
そう言って、また二階にあがって仕事に戻った。
そしてその夫は今、いない。
いなーい。
きたっ。神様の再々確認抜き打ちテストだっ。
よかろうよかろう。いってきんしゃい。心配いらぬ、いってきんしゃい。
「何時に帰るぅ?」
「えっと・・・7時には」
「へーい。いってらっしゃーい」
はい、ここ、大事なので、期末にもだしまーす。よく、復習しておくように。
しっかり身につくまで反復練習。