夫が早く帰ってきた。夜の8時。ありえない。
その朝、妻が静かに送り出したことに恐怖を感じたのだろう。
まったくもう。と私が言わなくなった時。それは本当に怒りを覚え容量いっぱいになったとき。そのマグマはふつふつと放出される。
30年間の歴史の中で、彼はそれをよく知っている。あ、ヤバイ、マジに怒らせたとアラームが鳴ったのだ。
私にしてみればもう、怒りという感情より手放し。もうこりゃダメだ、この人はこういう人なんだからという悟りに似たような諦めというか、受容というか。キャンキャン文句を言わなかったのはいつものとは違う心境だった。
「おかえり」
何事もなかったかのようにそう言う妻によけい怯える。
「ただいま。あの、この数日、すみませんでした。いろいろ。あの、ラグビーも。試験も。その、ごめんなさい。」
「いえいえ」
「あ、トンさん、お金下ろしてきたよ、フライパン、いいの買いたいって言ってたでしょ。」
確かにガビガビになったフライパンの買い替えをしようと思っていた。たまたまネットで1万円以上するものを料理研究家の男性がこれはいいんだと自分の料理動画の中で呟いていたのを見ていいなあ、でもちょっと高いしなあと話していたが、実際買う予定でもなかった。
「ほら、フライパン。買いなさい」
「ありがとうございます」
もらったお札を封筒にしまう。
僕、お風呂先入ろうかな。
どうぞ。
ご飯、これ?あ、美味しそう。あっためればいい?
そうだね。
あ、おいしい、トンさん、ありがと。おいしい。
よかったね。
やたら口数の多いその様子に力が抜ける。これが生活か。
あんまりこちらの様子を窺われるのが鬱陶しくて、そうかといって「もういいから」と笑ってあげるほどの元気もなくていつもより早いが寝ることにした。
息子にラインを送る。
お疲れ様です。今日は早めに寝ます。けれど具合が悪いわけではないのでね。おやすみなさい。
のそのそ階段を上がっていく私を下の方から呼びかける。
トンさん、おやすみなさい、ありがとう。ごはん美味しい。おやすみ。ありがとね。
ふん。
深夜。目が覚めた。
深夜と思ったが自分が早く寝たからで、実際はまだ23時30分だった。夫が階段を上がってくる。寝たふりをした
「トンさん、おやすみなさい」
「トンさん、布団、直すね」
「トンさん、かわいいから、大好きだから」
「トンさん、おやすみぃ」
暗闇の中、一人ぶつぶつ呟く。
足元に絡まった羽毛布団を私の上に広げてかけた。
おかしくてツッコミを入れそうになるのを堪えじっとしていた。
あ、怒った、と思ったとたん、このとぼけ具合。ずるいよなあ。
生活は続くのだ。