そっち方面に進む

朝から雨が降ると昨日から知っていた。

いつものリズムで1日がはじまらない。ザワザワ心配する自分をもてあます。

そんなに元気いっぱい体力有り余っているわけじゃない。自分で設置したポイントをなぞることで、安心する。ああ、今日も昨日と同じに過ごせた。一応のあのポイントはおさえたからまあよしとしよう。そう思える。

これが崩れることを極端に恐れ、雨の中、傘をさして歩きにでていた時期もあったが、最近、ようやくそこまでしなくても大丈夫になってきた。

今日も布団の中でラジオを聴きながらぬくぬくして起きた。

なんだか普通の人になったような気がする。

ふつうってなに。

普通にあこがれてそれに寄せて生きてきた。

長い長い探求の結果、今の私がたどりついた答え。

私の場合だけれど。

馬鹿にされること微笑われることをよしとする。

目に入った情報と自分を比較しない。ジャッジしない。

自分の品定めをしない。

この三つが完璧に落とし込めれば私は強くなる。かなり幅が広がる。

馬鹿にされたり蔑ろにされたというのも自分がそう感じただけで、そう感じなければそれは、なかったことに等しい。そういうことが自分人生の場面にはあるものだという前提でいればいい。

どこかで妙な自尊心が「わたしはそんなんじゃない」と思っているのだろうか。それともうっすら自分でそう思っていたところをつかれて、反応するのだろうか。

いずれにしても、自分を品定めもジャッジも何かと比較したりする習性がなければ言われた言葉やその場の雰囲気もただの一場面なのだ。

ただ、そういう一瞬が現れた。それだけのこと。

そのことに反応して自分を変える必要もないし、詫びることもしなくていい。

無反応でいるか、嫌な気分がしたのならそんな風に表してもいい。

それで「すぐ怒る」「器が小さい」「ユーモアがない」「癇癪もち」と言われたとしてもそれもよしとする。だけど「そうか私は器が小さく見えるのか」と心配して修正しなくていい。

子供のように。その場その場での感情を隠すことないんだ。

不機嫌だっていい。

自分の機嫌を自分でとるってそういうことかもしれない。

だれかに自分が嫌な存在になること、陰口をいわれること、見下されること。

もし本当にそんなことがあったとしても、それも相手の自由なんだから止められない。

だってそういう人なんだもの。

そして私もこういう人なんだもの。

どっちがわるいとか、ない。

ただ、そういう個性が一緒の空間に居合わせただけ。

私だけでなくだれもがそのまんまでいるのが一番平和。

自分に関する一切の比較とジャッジを捨てる。

これを本気で身につける。

きっと私は無敵になる気がする。