お彼岸のお墓参りに行った帰る車の中で、母のところに何か作って持っていくのは何がいいだろうとぼんやり考えていた。
姉が休みだったら私の差し入れは邪魔になる。
先週は日曜だったが、今日は出社したのだろうか。朝、出かけていく姿が見えたが時間がいつもより遅かった、あれはジムに行くのだったかもしれない。
母も82となり、姉を庇って毎日台所に立っているがやはり億劫になってきたようだ。
昨日、オーブンで大量に肉とジャガイモと玉ねぎを焼いて半分を持っていったら喜んだ。
「今日何にしようって考えてたとこだったのよ。」
自分一人だったらカップラーメンや冷凍のグラタンで済ませてもなんともない、むしろ大喜びでそういったものを食べる。しかし働いて帰ってくる長女のために、不規則で遅い時間に食べる彼女のために、胃の検査で引っ掛かったばかりの娘の体にはそうはいかないと頑張っている。
できるだけ自然に、「ついでだから」を装い、差し入れをしてやりたいと思う。
自分は万が一疲れ果てて何にもしたくなかった時のために朝からおでんを仕込んできた。
大根と蒟蒻と昆布。後は帰って練り物を入れるだけ。
大根は多めに入れた。どうしようもなくやる気になれなかったら、おでんを数種選んで持っていこうと予防線だった。しかし姉はそんなにおでんが好きではない。ということは母にとってはさほど「お助け惣菜」にはならない。
それでさっきから何を作ろうかと考えていたのだった。
外に出た緊張感と勢いでなんだかやれそうな気がする。
冷凍の白身魚のフライ。いや、揚げ物は姉が太ると母が嫌がる。肉じゃが。ああ家にはバラ肉も牛肉もない。豚こまはこの前固かったって言ってたっけ。
初めは息子にもおでんだけじゃ物足りないかと、彼用の付け合わせのついでと思っていたのが次第に姉の好物を作って持っていってやろう、母も喜ぶだろう、と思案している。
帰宅して、そのまますぐ台所に立って「ついでだから」と持っていくには何がいいか。簡単ですぐできて喜ぶもの。
このあたりでようやく気がつく。
依存している。
「ありがとう、助かった」「お姉さんこれ好きなのよ」と喜ぶからそれが嬉しくて、今日もそうしようと思っていた。作って持っていくことに拘っているのはすべて自分の手柄にしたいから。
欲しがるな。
感謝されて自分が役に立っていい気分になる、あの心地よさをもっともっとと欲しがるんじゃない。
ありがとうって言われたい依存。主に母から。私の場合。
やめよう。おでんならおでんでいいじゃないか。
車を渋谷で降りた。夫の車の運転が荒くて酔った。
そうだと母に電話する。
「今、渋谷にいるけど何か、買って帰ろうか」
「あ、ありがと、じゃああそこの餃子、12個お願い」
声はやっぱり助かったという声だった。ラッキーという明るさが伝わってきた。
おでんなんかより、美味しい餃子の方がもらう方は嬉しい。
混んで入り組んで何がなんだかさっぱりわからなくなってしまった地下街をぐるぐる歩き、やっと目当ての餃子屋にたどり着く。
結局、しがみついた。ありがとうにしがみついた。
それでも帰って疲れ果てた体で台所に立とうとしたのよりは、恩着せがましくなく健全な行動だと、自分のわずかな変化がここにある。
「成長したじゃん」。自分で褒めた。