夜中のラジオを聴いていたらテレビで見たことのある若いお笑い芸人の二人がしんみり語っていて、ああ、この人たちってこんなにまっすぐ真面目なんだなあと思った。
そんなことだらけなのかもしれない。
この人はこういう人って勝手に私が印象から決めていてもそれはその人の一部で、何にも知らない。
夫のことも息子のこともそう思っている。
私の前に見せる顔と、その奥から見える私が感じる顔と性格や感性は全体のほんの一部。かけらのようなものかもしれない。
なんとなくの居心地の良さで互いに選んで結婚して子供が生まれた。
なんとなくを頼りに生きてるんだなあ。
子供の頃、色や手触りについてもそんなことを考えた。
赤も青も私の中でこれを赤と決めてそう呼んでるけと、そしてそれで支障はなかったけれど、微妙なズレがあるのかもしれない。色見本の表を同じようにみんなが頭の中で処理してイメージとして捉えているなんてわからない。
これをツルツルするって言うんだよ。これはザラザラ。
私が触れて、感じたものに名前をつけられ教えられた。
けれど、そもそもその感覚がみんな同じなんてどうして言えるんだろう。
入院したときにどうしてここまで我慢してたんですかと言われた。確かに痛いなあ、辛いなあと思っていたけれどそれは私にとって我慢じゃなかった。諦めていたのだ。
夫は微熱が出ると寝込む。歯を一本抜いた夜はこの世の終わりのようだった。
でも彼にとって痛いという違和感はとんでもないことなのだろう。
心もそうだ。
その人が悪人とか善人とか強いとか弱いとか。
傷ついていないとか図々しいとか、この人は何言っても何を言われても仕方ないとか、言ってもいい人、言われても仕方ない立場とか。
時々みんなで決めてる。
あれ、怖い。その人に会ったこともないのに。
真実ってなに。
基準ってなんなんだ。
そう考えると私が私をどう見てどう感じてどう落ち込むなんてことこそ、実にくだらないことなんだ。
ここに楽しく生きるヒントが隠れてる気がする。
わかってきたけどまだ、ストンと落とし込めない。吹っ切れるまであとちょっと
こんなのあった?
急に現れた気がする。
ヒョロっとしてて、アスパラガスみたいで可愛い。