奥様

ガス給湯器がやってきた。

ほぼ使っていたものと同じ機能で使い勝手に戸惑わないのが嬉しい。

なんかお湯が出るのが遅くなったなあと感じてはいたが、こんなもんだったっけとも思う程度だった。

新品は違う。早い。お風呂もすぐ沸く。やたら熱湯しか出なかった台所の蛇口からもぬるま湯が出るようになった。

やっぱり劣化していたのだな。

そもそもは、ガス会社の定期点検でガスメーターのところに行こうと検査員の人が給湯器の前を通過した際、腰にぶら下げている警報装置が作動しピーピー鳴った。本来、ガス給湯器の検査に来たわけではなかったが、念のためにと調べると一酸化炭素が微量に流れていた。

普段なら寄り道する息子が珍しく早く帰宅し、シャワーを浴びていたのも偶然が重なった。

窓を開けて入浴している時に風に乗って家の中に入ってきて気が付かずに冬場、締め切った家の中で倒れるという事故もあるそうだ。

守られた。

知らずにこのままにしていたら、これから秋冬となったとき、寒がりの私は家中を締め切って毛布にくるまる。あったかくて気持ちいいなあとうとうとしているうちに意識が遠くなることもあり得たかもしれない。

工事をしにきてくれた男の人はぷっくり膨れたお腹とまんまるの顔をしていて、優しさと気持ちの良さを身体の中にパンパンに詰め込んでいるような人だった。腰の周りにずらっと工具をぶら下げているのがちっとも重そうに見えない。

「奥様、ちょっとよろしいですか」

台所で野菜を切っていると呼ばれた。

奥様という言葉と自分が結びつくのにやや、間があった。

「コチラが済みましたので台所の方のリモコンを取り付けたいのですがよろしいでしょうか」

どうぞどうぞ、よろしくお願いしますと場所を教える。

「奥様って言うから一瞬誰かと思いました」

「あ、申し訳ありません」

先日、母のところにエアコンの修理に来た人には「お母さん」と呼ばれた。その時も違和感を感じた。

お母さんと私を呼ぶということは母はおばあちゃん。ああ世間からはそう見えるのか。

〇〇ママという呼び名から卒業して随分経つ。

患者としての苗字で呼ばれる私。

薬局や美容院では苗字に様をつけて呼ばれる。

近所のおばさんから「あなた」、姉からは「あーた」、母からはトンさん、夫もトンさん、息子は母さん、友達はトンちゃん。

ほぼ家に篭っているのでその輪っかの中にいると自分の立ち位置の変化には気づきにくい。

奥様か。

「奥様なんて誰も呼ばないから。今日から家族に言おう。私は奥様ですって」

冗談を言うと笑ってくれた。

新しい給湯器、ほぼ何も変わっていないが、お風呂の沸いた音楽がパッフェルベルのカノンになった。

嬉しい。