読んでいた本に「強さはときに柔軟性を失う」という一文があってどきっとした。
私はこれまで強くありたい、強くなろうとしてきた。
傷つく弱虫な心を鍛えたくて、感じないフリをしたり、大丈夫と言い聞かせたり、泣かないように、悲しくならないように、いつも自分を励ましながら向こうに向こうに行こうとしてきた。
向こうにって。何の向こうなんだか。
それは多分、私から見える地に足のついた動じないたくましい人たちの住む世界の住人。
そんな人々がいるって信じていたから、どうして私はこんな孤独で暗いジメジメしたところでああでもないこうでもないといちいち、感じて揺れるんだろうと、少し人生を損しているような、これじゃいけないんだと間違っているような、そういった焦燥感のようなものがいつもつきまとっていた。
それは大人になってからだ。
大学の頃からうっすら芽生え、それは子供を産んだあたりからグングン伸びて葉を広げて私の中で茂っていった。
心も筋肉。
鍛えて鍛えて鍛えて、筋肉痛を起こしても肉離れをおこしても、ほら、ほら、まだいける、まだまだと、まるでサディスティックなパーソナルトレーナーのように休むこと、泣くこと、いじけることをよしとしないでがんばった。
無駄ではなかったと思う。
貧弱でゆらゆらしていたのも、持ち堪える力をつけてきた。
ポキっと折れてしまうことはたぶん、もう、ない。
強さは柔軟性を失う。
ハッとした。
私は何か大事なものを不要なものとして捨ててしまっていないか。
断捨離断捨離といいながら、掛け替えのない大切なものまで捨ててしまっていないか。
人は本当は全て持っている。
悲しみも不安も優しさも強さも正義感もずるい心も。
全部持って生まれてこの世にいる。
どこを鍛えてどこをよく使うか、どこを使わざる得ない環境で過ごすかだけの違いで、みんな、本当は根っこの根っこは大して違わない。
なんだ。そうか。
そう思うとすべてに、すべてのことに安心する。
今もあの時も、この先もこのままでいいんだ。
起きてくることの波にただ揺られてみよう。
もう手足を動かして、自分でどこに進もうともせず、溺れないようにと慌てたりしないで、ただ、手足を広げてプカーっと空を眺めて浮いてみよう。
どこにたどり着くのか。
海に浮かんだボトルのようだけど、ちょっとワクワクする。