いい風が吹く

夕方、少しだけのつもりで庭に出た。プランターの横のブロックの上にiPhoneを置き、BluetoothイヤホンをしてYouTubeチャンネルのおしゃべりを聴きながら草むしりをする。

もう、草原状態である。夏の始め、シルバー人材センターのおじちゃんが手入れをしてくれた。それ以来、何一つ手をつけていない。異常事態の猛暑が立派な口実で放置していた。

芝はそよそよとそよぎ、その間に猫じゃらしまで生えている。

一気にバリカン型の芝刈りでやってしまえと思っていたのに手入れの悪さで芝刈りの歯は錆びつきなかなかうまくいかない。

長く伸びた芝は歯に絡まず、なぎ倒され、その上を手応えなくバリカンが通過していく。

こりゃダメだ。

観念し、芝生を手でむしる。猫じゃらしもむしる。

右腕の肘から親指につながる筋肉にクッと力が入り、きゅっと痛い。ムキになってやると明日筋肉痛になりそう。今日全部は無理だ、少しだけやって終わりにしよう。

いい風が吹いた。

農家の人が仕事をしていて風が吹くと「あ、ご褒美の風」と言うんだそうだ。ラジオの投稿で聞いた。

本当にご褒美のようだ。

何のご褒美。

生きていること。ちゃんと、生きてここにいることのご褒美だ。

体操教室に行く母が玄関から出てきた。さっき2時過ぎに猛暑の中、歩いて30分の歯医者まで往復してきたのにまた、行くのか。

「休むんじゃなかったの」

「やっぱり行くわ」

「えらいねえ」

「みんな来るから。あなたもあんまりやり過ぎなさんなよ。」

80過ぎと50過ぎ。かたや超元気、かたや超ヘナチョコ、その極端な超超同志が丁度同じくらいの体力同士で、互いをいたわる。

出かけるはずの母もかがみ込んで自分の家の方の草むしりをし始める。

つられて数秒やって出ていくのかと思って見ているとだんだん本気になっていく。

「これから体操するんでしょ。およし。疲れるよ。」

「うん」

「屈んだ姿勢、緑内障によくないよ、およし」

「うん」

「やめないなら、私、この庭全部終わるまでやり続けるわよ」

笑って脅す。

「冗談じゃない、勘弁して頂戴、倒れるわ、あなた」

80が50が倒れると恐れ、手を止めた。

「いいから早くお行き」

「だってまだ少し早いんだもん」

「誰か居るって、いっておしゃべりしてなさい」

「何よずいぶん、邪魔者扱いするのね」

「今、お父さんが降りてきています。いいからさっさと体操に行かせるように言っています」

笑って手を止め立ち上がった。

「行ってくるわ」

「いってらっしゃい。タクシーが飛ばしてるからね。夕方は。気をつけて」

「はいはい。ありがと」

門を開け出ていく母に手を振った。

母も手を振り返した。

ふわっと乾いた風が吹いた。

秋の風だった。