螺旋

十年前に何度も読み返した本、飽きるほどどっぷりはまっていたから内容に新鮮味はないが、懐かしくてまた開いた。

ああそうそうこんな感じとノスタルジーに浸るだけのつもりが、全く初めての内容のように頭に入ってくる。

表現は一字一句変わっていない。けれど消化の具合が違う。

ああ、そういうことを言っていたのか。

まるで大味を好む幼児には茗荷や煮物の奥深い味わいがよくわからないように。普段は少食のくせに、フライドポテトやハンバーグやカレーの時だけ、おかわりをするとよく子供の頃、呆れられた私が切り干し大根と小松菜を美味しく感じるように。

数年置いて、彼の伝えたかった微妙なところがするすると入ってくる。そしてなんとも言えない安心感に包まれた。

こういうことを言っていたのか。

初めてじゃないのに初めての景色だった。

螺旋階段をくるくると、知らないうちに登っている。

急な螺旋じゃないけれど、毎日毎年、繰り返しの景色を見ていると思っていても、少しづつ上昇している。

くるくるくるくるをゆっくり小さな傾斜で進んでいるから気がつかないけれど、こんな時、ああ、ちょっと見える景色が広く見渡せるようになっていると気がつくのだ。

生きるって楽しい。こんな風に仕組まれている。

時々、思いがけないところで味わうようになっている。

公園でいつも見かけるご年配の夫婦がいる。

旦那さんの方が、数メートル先を歩く。

後ろを小柄の奥様がついていく。

振り返りもしない。声もかけない。まるで他人の散歩のように離れて歩く。

そしてラジオ体操の会場に着くと夫は社交的になり、仲間のおばさん達とメジャーリーグの話題で盛り上がりご機嫌におしゃべりをして、奥様はその隅で誰かと小さく話している。

時々、夫だけがやってくる時もあり、周囲が今日は一人でどうしたのと尋ねると「これから出かけるから、あいつはいろいろ準備してる」と説明していた。

家で食事や洗濯が持ち物の準備などをしている奥様を想像してちょっと気の毒に思っていた。同時にふんぞり帰って笑っている彼のことを「もうっ」と。

昨日、散歩をしていると、ラジオ体操の公園のベンチに二人が座っていた。並んでお茶を飲んでいる。おそらく、冷たいお茶か、水か。熱中症にならないようにだろう。木陰のベンチで二人、腰掛けている。

旦那さんが水筒から注ぎ、彼女の手に渡す。

黙ってそれを受け取り、飲む。

それを見ているだけの彼の表情が、それはそれは柔らかかった。じっと飲み干すまでを見つめている。

通り過ぎる数秒だったけれど、印象に残る優しい空気がそこにあった。

いいもの見ちゃった。

あれから何回もあの場面を飴玉をころがすように、頭の中で反芻して味わう。

そのたびに、ほわわわわんとしたものが浮かんでくる。

こんな些細な場面に出会しただけのことを宝物のように何度も思い返して味わうのも、きっと少しずつ、見える景色が変わってきたからかもしれない。

小さな傾斜をくるくるくるくる。

同じ1日、一瞬はないんだな。