刺繍

ついに刺繍をやり出した。

海外ドラマにも飽き、ソリティアを連続してやっていると目の奥が痛くなる。この痛みさえなければ怠惰な私は一日中、IKEAの椅子の上でやっていられる。あの数分の間、ぐっと集中してどこかに潜っている。他に考え事なんかしていると数字を見落としたりするから気が抜けない。けれどそれもせいぜい数分、長く長く潜水はできないけれど息を止めてエイッと潜っていく感じ。そしてゲームを達成するとパーッと息を吐きながら水面からザブっと顔を出す。そんな遊びを飽きずに繰り返す子供のようだ。

しかし目の奥が痛くなってくる。限界までやると戻るのにも時間を要するので、じわじわきたところで、やめた。

・・・やることがない。

本も読む気分じゃない。目がしょぼしょぼする。

母が誕生日にくれた刺繍キットが目についた。

箱を開けて、少し、始めてみた。

初心者向けに糸の番号、ステッチの名前とその解説した図、何本どりか、丁寧に細かく書いてある。少し前の自分はこれをいちいち照らし合わせることが面倒で嫌だった。いっそのこと自己流でめちゃくちゃにやっちゃおうかと思うほど、こういった細やかな作業は好きではない。

そうそう。こういうの、嫌なんだよねぇ。

自分を揶揄うように、あえて、一つ一つ、丹念にメモ書を調べ、糸を選ぶ。

全部仕上げなくちゃとか、上手にやろうとしなくていい。楽しめ。暇つぶしなんだ。

しかし母はどういうつもりでこれをよこしたのか。きっとプレゼント選びに困った末のことだろう。服もアクセサリーもいらない、そして摂食障害だからホテルでランチなども誘えない。そんな我が子は何をあげたら喜ぶか、わからない。

それでも何か祝ってやりたいと思うのだ。80を過ぎても54は娘なのだ。

あれほど疎ましく、苦しい関係だった母がこのごろ、やたら愛おしい。よく、投げ出さずに私を大人にしてくれた。

糸を一本一本、手に取り、針穴に通す。このキットのために作ったメガネをかけて、布に書かれたラインの上を刺していく。

笑っちゃうくらい下手だ。小学生の家庭科だってもっと上手だろう。けれどこれこそが私の作品だと思えてくる。

この、微妙な歪さ、真っ直ぐというところをあっちこっちにぶれながら進んでいくステッチ。

丸くというところは角張って、何度も何度も針を刺し直すのに、思ったところに刺さらない。

おかしくなってくる。まるで私の不器用な生き方そのものだ。

不思議なものでタブレットだとすぐに目の奥が痛くなるのに、布と糸はじんわり疲れるのは肩だった。目にはそんなに辛くない。

不恰好な蛾ができた。本当は蝶なんだけど、どう贔屓目に見ても蛾が飛んでいる。

「お、クリエイティブなことやっとるな」

休暇で家にいた息子が水を飲みに降りてきた。

「好きじゃないんだけど、おばあちゃんがくれたから、夏休みの宿題」

「良いのう」

もうちょっとやれる、やりたいなと思うところでやめた。

「あ、夏休みの宿題っていうの、やめた。もうあとちょとだもん、秋までに、いや年内の課題にする」

よそう。そうやって決めると楽しくなくなる。

「あ、還暦までに仕上げるわ」

へえへえと、どうでもよさそうに部屋に戻って行った。

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雨で水嵩が増えて小鴨が嬉しそう。