ちっちぇなあ。
私のことです。
夫の起こした車の事故、あれは私の想像していたよりも大きなものだったようで修理工場から廃車か、それとも全額保証の保険で新車かと連絡が来た。夫は大喜びで当然新車を選ぼうとする。なにしろ、「これからは気をつけるんだよ」とすんなり新品と取り替えてもらえるのだから、こっそりラッキーと思っているのだ。こっそりでもない。満面の笑みにそれは表れている。
しかし私も息子もそこに抵抗する。
2度も事故を起こして、それもどちらも自分の不注意で、誰か負傷者が出ていないものだから「やっちゃった」程度の反省しか感じられない。そもそも夫の運転は下手なのだ。助手席に乗っているとカックンと急に止まるブレーキの連続に私は酔う。
車がなくても生活できる。運転するのは夫だけ。家族をどこかに連れて行くでもない。使用目的もほぼ、夫の遠出。
いつものように強引に言いくるめようとするのを遮り
「これは、家族会議で決めましょう。息子とお母さんとお姉さんと、みんなの意見で決めましょう」
ということにした。本人もそこは同意した。
そしてその流れを母のところに伝えに行った。
「そうなったからさ。二人の考え、ざっくりでいいから決めておいてよ」
私個人が反対して力任せに制するのも、息子と二人で多数決で決めるのフェアじゃないが、母と姉が加わっての決断ならそれぞれ納得するだろう。
正直なところ、私はもう一回、チャンスをあげてもいいんじゃないかとも揺れている。
車の遠出で気分転換もしているんだろう。あの空間はきっと私のドトールだ。なくてもやっていけるが、息つく場所として大事なのだ。
前振りがかなり長くなってしまった。
車をどうするか問題を書きたかったのではなかった。
昨日、肉じゃがの残りに蒸したじゃがいもを足してコロッケを作った。母のところに持っていく。
「車のことだけど」
呼び止められた。
「廃車にしてもいいと思ってるんだけど、それとは別に彼に言っておこうと思うことがある」
いつも自分だけ出かけて行って家族をほったらかしていると不満な母は、それを言うつもりかと思ったら
「毎週、ああやって土日、どこかに行って、体を休めることもしないと。そろそろそういう心配をする年齢になってきたんだから」
ああ、それは私も言っている。あちらのお義父さんは糖尿病だし、いつまでも若い時の感覚で飲んだり食べたり夜更かししたりは無理なんだよって言っている。
「違うって、うちのお父さんが癌になったのだって今の彼くらいの時だったんだから」
きた。いやだ。それ以上聞きたくない。
そんなのずっと前から意識している。しかし恐れてばかりいても仕方ないじゃないか。他にももっと危険はいろんな形で降ってくるんだ。腹を括って、用心しているのだ。
母の言葉は時々呪いの言葉になる。
いかにもそれが真実かのように、森の奥の魔女がつぶやくが如く、「そんなことをしていたら、この先、とんでもないことが起こるぞよ」と呪いをかけてくる。
「あんなことしてると彼もお父さんみたいにそのうち・・」
「やめて、ちゃんとわかってるから、もう言わないで」
「だって今の彼の年齢だもの、お父さんが病気になったのは。お父さんだって・・」
「やめて、今すぐ、声を出すのやめて、何も喋らないで。お母さんの心配はありがたいから、ぜひ、直接彼に言ってやって。私の耳には、今、入れないで。生々しくて聞きたくない」
思春時の子供か。
はいはい、ありがとねとなぜ言えない。なぜ彼女の不安を受け止めてやれない。
自分が不安定になるのを恐れて、遮った。
「あら、そう。・・わかった、じゃあ、そうする」
その後、特にわだかまりが残ったわけでもなく、エヘヘと私は笑い、母も違う話を始めた。
母が何を思おうと、どう評価しようと、それが真実でないとわかっている。わかっているのに縛られる。
まだまだ未熟だ。
今朝、冷蔵庫を開けるとコロッケの皿が手付かずにラップがかかっていた。
付け合わせに作った、冷凍餃子を入れた手抜きの野菜スープの方は綺麗になくなっている。
一瞬、む、っとする。こっちがメインなのに。冷凍餃子かよ。
誕生日にやらかして気の毒だった夫の好物を作ってやろうとした方のコロッケが、まるまる残されたものだから、気持ちが蔑ろにされたと憤慨しての、「む」。
今、脳内ではそういう反応現象が起こったわけだ。つまりこの怒りと感じた瞬間の「む」は、単にエゴが「あんまりじゃないっ」と反応しているだけのことか。
やっぱりちっちぇなぁ。
よしよし。それもよし。それが私。
凸凹凸凹。今日も行く。