サイン

歯の詰め物が取れた。治療中の仮歯で、これで高さの調子がいいようだったら次回、型を取って本格的なものを作ることになっていた。

それが、取れた。

フロスをやる時に引っかかって、えいっと力を入れたらポロッと外れた。初め、何か大きな食べ物かすが取れたのかと思うほどあっけなかった。

気が立っていたのだ。

昨日の私は1日中、苛立っていた。

夫の交通事故を引きずっていたのは私の方で本人はもうけろりとしている。

理屈から言えば大人しくして見せれば深く反省していることになるかと言えば、関係ない。それでも謹慎中の厳かさをせめて翌日くらいは、見せてほしい。

よく謹慎中の芸能人がコンビニで買い物をしていたと写真を撮って「不謹慎だ」「何事だ」と叩く記事やTwitterを見かけるが、「どうでもいいじゃん」と眺めていたが、結局、私もそういう考え方をしている。

陽気にテレビを見て笑う夫から意識を逸らしたくて、別に昨日が期限でもないのに図書館の本の返却をしに行く。

6冊の本をリュックに背負い、バスに乗る。

実のところ、週末夫に車で図書館まで乗せて行ってもらおうかと思っていたのだ。

一人暮らしをしていると思おう。

誰かを当てにしないでも生きていけるように訓練だ。

ヨタヨタになって帰宅すると夫は2階にいた。親戚の家の賃貸の件で不動産屋と話している。

「あ、はい、どうもどうも。ええ、すみません、はい、そうですね、はいはいどうも、よろしくお願いします」

明るい。実に明るい。底抜けに明るい。

面白くない。面白くないが、これこそが、私を救った。

この、物事を深く必要以上に掘り下げないところ。

このメンタルだったからこそ、妻が納戸に引き篭もり口を聞かなくなっても笑わなくなってもいつもと変わらず、一緒に暮らせたのだ。

何があったのか。何が気に入らないのか。こうしたらどうだ。こうしてあげようか。こんなにこっちが気を遣っているのになんだその態度は。甘ったれてるんじゃない。

細かいところまで気を配る人だったら、そうなったかもしれない。

優しさと愛情からくる声だったとしても、そんなふうに問い詰められていたらきっと私は居場所をなくし、崩壊していたろう。

「ご飯だよ」

「はーい」

息子は夕方から出かけて帰りは遅い。二人の食卓。

「美味しい、これ」

「それはよかった」

「美味しい、トンさん、ありがとね」

「いいえ」

不動産屋さんが自分の伝言ミスをこちらの責任にしようとしてくるんだと言う。

「もう大変なんだよ」

「過去のメールを添付して、確認すれば」

そんな話をしばらくした。

「ふふふふ」

テレビを見て夫が声を出して笑った。

「笑うなっ。」

「あ、はいはい」

確かにここで夫がズーンと暗くなっていても、それはそれで私は辛い。

たぶん、私のようなタイプにはこの夫の在り方は正解なのだ。

で、その夜、仮歯が取れたのだった。

もう、終わりにしなさいというサインだと思った。