私にできるなにか

トニー賞の授賞式を観ていた。

舞台の最高峰とも言えるパフォーマンスはどれも力強く、ウィットに富んで、超人的としか思えない。

同じ人間なのだろうか。あの人たちの筋肉や骨格はそれ専用にできている特別仕様なんじゃないだろうか。

あまりにすごすぎると、自分と比べて落ちこむということすらしない。

ああ、小さかった。私の見ていた世界はほんのちっぽけな、世界の隅っこの隅っこの隅っこだ。

その隅っこの中から見えるわずかな人達の情報と自分を照らし合わせていじいじしてたんだなあ。

先日はミャンマーの取材をしていて拉致された映像カメラマンのドキュメンタリーを観た。

この人の頭の中の正義感と使命感を思うと、己の存在だけに目を向けている自分の生き方がどこか、弱いような、劣っているような恥ずかしさみたいなものが迫ってきた。

私にできることって。

多分、トニー賞にしても、ミャンマーの記者にしても力の限り、自分の信念をぶつけて生きているから。

その圧倒的なパワーがこっちに向かってきたから。

だから私は少し、ぐらつき、少し、凹み、少し反省した。

私はどうしたらいい。

トニー賞を観ながら味噌汁を大量に作り、煮物を作っていた。

とにかく野菜をと、残り物の大根、人参、ジャガイモ、牛蒡、油揚と豆腐。ピーマンにチーズを入れて豚肉で巻いた。生姜焼きの下ごしらえをした。

3時過ぎ、遅い昼ごはんに息子が降りてきた。

そろそろかなと焼いていたサバの味醂干しがちょうど焼けたところだった。

味噌汁に鯖にきんぴら。

「うめえ」

炊き立てご飯に卵をかける。

 

世界を照らすやり方は思いつかない。

世界につながる社会に出ている家族の住む家を照らそう。

居心地のいい、場所にしよう。

今はそれしか思いつかない。

そういうポジションも必要なはずだというのは言い訳かもしれない。