淡々と重ね続ける

ただ生きているだけでいいのだと、思う。

くっさい綺麗事のように聞こえるかもしれないが、最近になって「やっぱりそうだ」と強く確信する。

息子を育てている時からそんな想いはあった。

彼が反抗期で夜中までゲームをやり、勉強は嫌いな先生のはしない、食事を一緒に食べない、そんなとき。よく激しく喧嘩した。

叱責ではなく、あれは喧嘩だった。

取っ組み合いもした。壁に穴をあけ、ドアに凹みも作った。

それでも根底には、彼が生きていることで充分だという信念があった。

体が弱くなかなか妊娠をしなかった。やっとしたかと思えば流産をした。それからやってきたのが息子だった。

だから彼と取っ組み合いの喧嘩をできる自分が奇跡のように感じられた。

これぞ育児の醍醐味だわ。

どこかでそれを味わせてもらえたことを感謝していたのだった。

 

先日、母が仲良くしている従姉妹が麻雀を始めた。

母と週二日、体操教室、隔週で吹き矢。それとは別にパッチワークと近所の小学校で宿題を見てやるボランティア。選挙のある時はその手伝い、合間に観劇、飲み会、旅行が入る。そこに新しく麻雀が加わったのだ。

母はそれに動揺していた。

「あの人は偉い。私はそれに比べて何もしてない。何か始めないといけないのに何もできない」

毎日どこかに忙しく出かけるようにあちこちのコミュニティに参加している彼女を偉いという。その積極性のない自分はダメだ。こんなんじゃいけない。でもやる気が起きない。

私に言わせてもらえばとんでもない。

週二日みっちり2時間の体操教室、隔週2時間の吹き矢、どちらも隣の街まで徒歩で行く。

姉の食事の用意をしてゴミも自分で出す。

80歳になった時に私にそれができるだろうか。

「いいんだよ、お母さんの役目はお姉さんのそばで淡々と変わらず暮らすこと。それがどれだけ救いになっているか。ストレスだらけで帰ってきた家にいつも安定したリズムで生活している人がいるってすごい安らぎだと思うよ」

そうかしらと腑に落ちない様子だ。

 

息子が私によく「なんの心配もいらないな」と言う。その度に私は「なんの心配もいらん。全て順調、いい方向に向かっている」と答える。

何がそんなに不安なのと尋ねると「まあ漠然とした、俺の人生どうなっちゃうんだという」と苦笑いをする。

それに似たようなものを母も未だに抱えながら暮らしているのかもしれない。

自分の人生はこれでいいのか、もっと何かなすべきことがあるのではないか、このままただ日々が過ぎて終わっていくという焦り。

いいんだ。それで。

それがすごいことなんだ。

ただ、平穏に日々を重ねる。重ね続ける。

やりたければやればいい。やりたくないなら休めばいい。

ただ、居れば、いい。

いてくれれば。

 

私自身にもそうなだめる。

こんな毎日でいいんだろうか。

周りの人がみんな自分より立派に見える。一生懸命、その度に私だってこんなふうにすごいじゃないかと励ますが、すごいなあ、偉いなあと思う人の方がほとんどで、それも少し無理がある。

それでも、生きて、ここにいる。

ここまで生きてきた。

それで充分なのじゃないかと、言ってきかせる。