幼稚園時代からのママ友達からLINEが来た。
園長先生がお亡くなりになられた。98歳だったそうだ。
今週末、近所の葬儀場でお通夜と告別式があり、弔問は可能だがお花、お香典など一切ご遠慮致しますと張り紙が園の門に貼られた。
その張り紙を写真に撮ったものが添付されている。私に送信してきた彼女もまた、同じクラスだったママさんからのLINEで知った。
それを私にも回してくれたのだった。
きっとこのような形であちこちの卒園者とその保護者に訃報は伝わっているのだろう。
何か一つの時代の象徴が終わったような切なさを感じた。
不謹慎な例えだが、サザエさんの波平さんの声が変わった時のような、私の中でのお父さんを連想させる人たちが消えていく、そんな寂しさに似ている。
それまで近くを通ってもお会いしたいとも思わなかったくせに。
波平さんの時だって、以前のように日曜の夜は絶対サザエさん、というほどでもなくなっていたくせに。
いなくなってしまってから動揺してしまう。
自分の父の時は治らない病気だと覚悟していたのと、日々小さくなっていく姿も見ていた。実際亡くなってからの方がその喪失感の大きさに狼狽えたが、やらなくてはならない現実的な事務仕事と小さな息子との生活で悲しみを味わうのはずっと経ってからのことだったように思う。
息子が年少の年の冬、大雪になった。朝には雪は止み、積もった緑道を長靴を履いて二人、歩く。
あっちに寄り道、こっちに寄り道、積もった雪が面白くてまっすぐ進まない。
遅刻してしまうとヤキモキする私の気も知らずに息子は「お母さんほら」と雪遊びを始めてしまう。
歩いて20分ほどの道のりを、不確かな足取りと、お遊び寄り道とで1時間かかってしまった。
緑道の曲がり道、園に続く長い坂の下まできた。
見上げるとその坂の上に園長先生が立っている。遅れてくる園児はもういないかと待っていてくれたのだった。
私は恐縮し「申し訳ありません」と下から大きな声で謝った。
呑気に遊びながらやってきたものだから遅刻したことを詫びた。すると先生は大きな声で叫ばれた。
「ゆっくり上がってきてください。走らないで。急がせないで。ゆっくり来なさい」
そこからまたえっちらおっちら、母親の私の方が決まり悪くなるほど息子は時間をかけて坂を上がっていく。
何分もかけてようやく門の前まで到着すると細身で背の高い先生は両手を広げ、ずぶ濡れのレインコートごと、息子を包んだ。
「よく頑張ったねぇ。よくきたねぇ。自分の足で歩いて来たんだろう?偉かったねぇ」
えへへと笑うが特に返事もしない息子の頭を撫でてくれた。
「じゃあお預かりしますよ」
ぺこぺこ頭を下げて私はやれやれと家に戻った。
ずっと忘れていたのに、なぜか急にこのエピソードが浮かんできた。
あの時の私にはわからなかったが、深い愛情を持つ教育者だった。
息子が始めて関わる社会にいた大人があの方だったのは幸運なことだったのだと今更思う。
「あの時代が一番良かったね」
LINEをくれた彼女が送信してきた。
確かにあの幼稚園の中には怖いものも悩ましいものも深刻な不安も啀み合いも何もなかった。
折り紙と粘土と、壁に貼られた絵、プール当番、好物だけを入れなさいと言われたお弁当、運動会、盆踊り。
今の息子との生活もいい。あの頃が良かったと、戻りたいとは思わないが、今の彼のベースを作ってくれたのは先生の深い愛情の詰まったあの園が大きいのだった。
園長先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
ありがとうございました。