観ていたドラマの中で、家族との問題を抱えた少女が里親の元を転々とするなか、酷い仕打ちにあい続け、心を閉ざす癖がついていた。本人には自覚がないが、なかなか他人に自分の気持ちを伝えない。その場が和む会話はするのに深く掘り下げた、自分をわかってもらうための関わり合いを避ける。
これまで幾度となく傷ついてきた彼女が知らず知らず身につけた防衛する術なのだ。
それに対して最後の里親で養子に受け入れようとする女性が言ったのだ。
「人との関係で傷を負うと、自分の中に閉じこもって全てとの関わりを断つよね。私もそうだったからわかる。一番安全だもの。でも、一生そうやって生きていくのは味気なさすぎるわ」
うーむ。
この台詞が響いたと言うことは私にもこの要素があると言うことかも知れない。
子供の頃は誰にでも全開だった。高校、大学の1年くらいまではそうだったかもしれない。
信じ切っていたものたちから肩透かしを受けたり、自分の発想にない無防備なところを突っ込まれたり笑われたりすることが重なった。
助けを求めたつもりだったが適当に交わされてしまった。理解してもらえなくて神経質だと叱られた。
わかってもらおうとすればするほど、疎ましがられ、悲しく悔しかった。
そのうち揉め事も叱られるのも非難されるのも嫌で、表面だけは落ち着きを取り戻し、大人になってみせた。
共感する魂を持つ人を求めることは馬鹿らしい夢物語なんだ。
夫と出会い、息子が成長すると二人は私にとって魂の共同体になった。
心の底から怒りをぶつけ、心配し、彼のために悔しがり闘えるのが夫。
無条件で全てを受け入れてしまう存在が息子。
昔の友人たちとの付き合いを遠ざけてもう数年になる。なにを恐れたのか忘れてしまった。
けれど会って上辺だけの会話に疲れていたのは、あれは私の心が硬かったからかもしれない。
投げてきた言葉を受け取る心のクッションがふわふわしていたら、それほど痛みを感じずに済むのではないだろうか。
懐の柔らかい人になりたい。
もっともっと人との接触を恐れず柔らかく自分を晒し、相手を許容できる深い女になりたい。
生きてく上での目標がまたできた。
目標ができるのってちょっと嬉しい。