俺、帰りの電車の中で涙出てきちゃったよ
またしても枕元に立つ息子。寝室のドアを開けてあるので普段は「今帰った」と声をかけてくるだけなのだが、昨夜は中に入ってきた。
ただいまと声をかけられ、最近仕事でしんどそうなのを知っていたからつい「おかえり、お疲れさん」とはっきりした声で返答した。
いつもなら「おかえりぃ〜、ご飯あるから〜」でそのあとは会話をしたくない雰囲気を醸し出すのだが、それが忍びなく覚醒した声で「おかえりお疲れさん」と言った。
それが甘ったれ心を引き出したのか、それとも初めから聞いてもらう気満々だったのかわからないが、呟き出したのだ。
俺はなんのために生きているんだと思ってさ。
・・・。
返事を待っている。なんとか言えよというこの空間。
しかし母は冷たい。甘ったれんなとややうんざりしている部分とやれやれという気持ち。このやれやれはなんなんだ。困ったねえという、ちょっとため息をついてしまう小さな苛立ち。
この俺の抱えるこの世の不幸をさあ、どう慰めてくれるのだというこの空間。それにイラついている自分の薄情さを隠すようにわざと明るい声で
「そうかそうか泣きたいことがあったか。それならしっかり食べて寝なさい。お風呂でよくあったまって深く眠りなさい」
と答えた。
黙って部屋を出て行った。階段を降りていく気配がない。きっと自分の部屋でベッドに転がって落ち込んでいるんだ。どん底の気分で泣きながら孤独を感じているのかも知れない。
「はよお食べよ〜」
寝ながら大きな声で呼びかけた。
やがて階段を降りて行き風呂に入る音がする。よしよし。私もまた眠りについた。
「あのさ」
多分それほど時間は経っていないのだろう。しかし眠っていた。眠りを起こしたのはまた息子の声だった。
「食欲ないからこのまま食べないで寝る」
なんと。
「空腹だと疲れが取れないよ。少しでもいいから口に入れたら」
「食欲ないんだよっ、食べる気にならない」
俺様の辛さを軽く見るなと言わんばかりに声を荒げた。修行の足りない母はここでもムッとする。
「・・・ふーん。じゃ、ラップして冷蔵庫入れといて」
「わかった」
何があったか知らんが甘ったれてるんだと思うドライな気持ちの上にのしかかってくるどうしようもない気持ち。
かわいそうに。かわいそうに。かわいそうに。
何があった。どうした。がんばれないのか。どうしたらいいんだろうねぇ。
24にもなるいい大人が母親にそれとなく甘ったれている情けなさ。それも覆い隠してしまう暗く重いものを抱えながら目を瞑る。
これは、彼の問題だ。
彼が踏ん張る時なのだ。
彼は潰されない。潰れない。私が助けなくてもそれだけの力はある。言ってみてるだけ。
私がここでするべきことは引っ張られず、機嫌よく強くいること。拒絶せず、深入りせず、普通にいつも通りでいること。
一晩明けて、昨夜のことを思い出す。冷蔵庫を恐る恐る覗くとやっぱり手付かずの皿が三つ、入っていた。
これ、朝食べるかなぁ。朝から春巻きは重たいよなあ。一食抜いた分を効率よくリカバリさせたいとあれこれ考える。
また今朝も出社するまでどんよりぐちっぼく絡んでくるのかなあ。やだなあ。
ああやっぱり。
息子がかわいそうだと思う感情より、私は自分の鬱陶しい気持ちを持て余している。
バームクーヘンなら食べるだろうか。
闘ってくれ。立ち向かってくれ。踏ん張ってくれ。かっこよくなくていい。かっこ悪くていい。
太々しくていい。美学なんてどうでもいい。
そんなものぶっ飛ばして、生きろ。
スマートに綺麗に生きるってそんなのいらないんだ。
ぶっ飛ばせ!
・・・って言ったら「何もわかっちゃいない」と怒るんだろうなあ。