父の椅子をついに処分した。
処分というとやんわりだが、要するに捨てた。
私が中学の頃から父が使っていた革張りの椅子だった。椅子というよりチェアというのか。外国の高いものだったと思う。
会社から帰ると、夕飯が終わると、休日は朝から、いつも奥の部屋にあるオーディオでレコードをかけながらそこで本を読んでいた。
そこに座っている時の父は明らかに自分の世界に入っていて、特に用事もないなら側にいてはいけないような、居づらいような、見えないカプセルに入りこんでいるようだった。
そうかと思うと突然その部屋から飛び出してきて、陽気なジャズに合わせて踊る。
両手を叩き、バンドのリズムに合わせ、おどけてくるのにこちらも合わせて踊る。本当はどう反応すればいいのか困ってしまうが、せっかく機嫌がいいのを長持ちさせたくてとりあえず一緒に踊る。
母も姉も静かに見ているので末っ子の私がその役目をやらねばと、あえてお調子者になって応えるのだった。
基本、気難しい人だった。
俺は下品な女は嫌いだ。よくそう言っていた。告げ口、悪口、意地悪、小細工、小さなズルも許さない。食べる時の姿勢も、音も。自分にも厳しく、家族にもそうであれとする。そのくせどこかで豪快できっぷのいい江戸っ子でありたいと憧れも持っていたから時々酔っ払うとわざとべらんめえ口調になってそんな男を演じる。
かわいいというか、人間臭いというか、めんどくさいというか。
自分が大人になって振り返るとややこしいけれど魅力的な人だったと思うが、父のそばにいるときはどんなにふざけて笑って会話をしていても、娘の私はいつも頭の隅の一部はピンとアンテナを張り巡らしていた。
父に嫌われる女になっていないか。
いつもそれが頭にあった。
父が大好きだったのだ。怖いけれど、かっこよく、めんどくさいけれど、優しく繊細で、深い心遣いをしてくれた。何よりも私のバカなところを面白がってくれた。
「おまえは本当に面白いやつだなあ」
それが最高の褒め言葉で勲章だった。
62歳でこの世を去った。
お父さんが死んだら私は生きていけないのではないだろうかと恐ろしかった。
しかし、2歳の息子と過ごす時間に追われて時間は過ぎる。ぐらぐら不安定な足元を必死に踏ん張り歳を重ねた。
父の椅子を母が布に張り替えたのは亡くなってから数年後だった。今度は夫がそれを持って単身赴任した。
染み付いていた父の匂いはやがて夫の匂いになる。
単身赴任を終えて持って帰ってきた頃には「これは僕の椅子」と夫が言うようになった。
だんだん私の中から父が薄れていく。
お父さんに嫌われない女でありたいと、常に心においていた縛りも緩む。
リビングにある大きな椅子は父と夫の入り混じった複雑なものとなり、肘掛けは崩れ、骨組みも歪んできた。
「お父さんのあの椅子、捨てていい?」
一応母と姉に伺いを立てると二人揃って「もういいよ。捨てなさい。あんなボロボロになったのを見るとかえって切ない」と答えた。
よし。
決心してからもぐずぐず踏み切れずにいたが、ついに粗大ゴミに申し込んだ。
あの椅子が粗大ゴミ。
いいや、あれはもはや単なる物だ。お父さんは消えたりしない。
父が死んでしまうと分かったときのように不安になる。いや、もう大丈夫。私はこれからもちゃんと生きていける。
もう、お父さんに寄っ掛からなくても進んでいける。
夜遅くなると必ず駅の改札にいてくれた。
どこか知らないところに出かける時は、地下鉄の地図と何番線のどこから乗るのか、階段はどこを使うと書いたメモを作ってくれた。
ありがとう。
朝、シールを貼った椅子が門の外に置かれた。
やはりちょっとグッとくる。
ありがとうございました。
背中のところに手を置いて、お別れをした。