朝のラジオ番組で、お坊さんに相談するコーナーがある。
そこで30代の男性から「人間の生きている目的は何か」と言う質問が来た。
自分は5歳になる子供もいて妻もいて、仕事も順調、何の不自由もないがこのままでいいのか、このまま年と取っていくだけでいいのかと思う、人間はなんのために生まれてきたのでしょうかと言うのだった。
そんなの、意味なんかないよ、と心の中の私が冷たく言う。
もしくは、愛を知るため、本当の愛ってなんなのかを学ぶため、ともう一つ付け加える私がいる。
そんなことを思っているのか、と自分でちょっと驚いた。
お坊さんの答えはこうだった。
壮大な質問ですね。それを探るために一生をかけて問い続けるというスタンスで生きてみたらどうでしょう。
質問者は納得しただろうか。
私もトンネルに入ってしまった時、似たようなことを知りたかった。
私はなんのためにこの世に来たのか、使命は何か、役目は何か。
人には必ずギフトがあると言うけれど、自分にもそんなものがあるのだろうか。
神様が誰にでも一つづつ、その人専用の特別な部屋を用意していて、その扉を開けるとそこで自分は輝くようになっている。
その部屋の鍵さえ見つければ自分は安心して、そこで迷うことなく生きていけると信じていた。
いつも迷って不安だったのはなんでだろう。
あれはなんだったんだろう。
今、少しは以前より気持ちが開いてきた。それでもまだ外の世界に飛び出していくだけの気力が湧いてこない。
これは何を恐れているのか自分でもわからない。
体力の無さ、抱えている病気のことだけではないように思う。
それを隠れ蓑にして安全地帯をでない。
昨日からの自分が今日、明日と続くと思うから慎重になるのかもしれない。
毎日日めくりカレンダーのようにピリッと破いて捨てる、また新しいまっさらの今日。
自分という人間の設定も全てがまっさら、似ているようで毎日違う、周りの人も、起きている現象も。
あ、今日はそういう設定なのね、そういう私を演じるのねとその場その場のアドリブを生きてみるのはどうだろう。
質問者はそうやって気がついたら人生に残るものがなく終わっていくのが嫌なのかもしれない。
何か生きた証を残したいのかもしれない。彼なりの、納得のいく何か。
乱暴に聞こえるかもしれないが、最近、意味より本能じゃないかと思う。植物が太陽の方向を向くのがあったり、日陰を好むのがあったり、一年中葉っぱをつけているのもあれば、秋になれば葉を落とすのがあるように、それぞれの中に元から埋め込まれている本能は人間でもいろんな種類がそれはそれはたくさんあって、多分、どれひとつ同じじゃないようにできている。
そもそも誰かみたいにと憧れることが無理なのだ。
だからこそ、人は似たものを求めて集まったり、共感できると嬉しくなったりする。
昨日母がやってきて私の服装が地味だからこれを着ろと自分のカーディガンを持ってきた。
上等なレースのもので美しい刺繍のしてある白いカーディガンを丁重に断った。
「あら、あなたもう少し華やかな格好しなさいよ」
ぷっと膨れる彼女の首元のハイネックに目がいった。細かいピンクとえんじ色の綿のボーダーの首のところに細い縦線が見える。
「お母様、これは、ファッションでしょうか、ウッカリでしょうか」
後ろ前になっているのを指さすと「あらやだ」と照れた。
「華やかですわぁ、斬新ですわぁ、あえての前後ろ」
「いやあね、なんか窮屈だなと思ってたのよ」
ゲラゲラ笑う。
笑いながら母への葛藤とわだかまりが溶けつつあるのを感じる。
間に合ってよかった。彼女が生きているうちに間に合って。
生きてく意味ってそんなことかもしれない。