いっさい、目に入ってくる誰かと自分を比べることをやめたら私の時々やってくる憂鬱感や自己否定感はほとんど消えるんじゃないだろうか。
ある時期から自分の子供とよその子を比べない、比べそうになる場に行かない、付き合わないようにした。
目の前の息子だけを見る。彼の行ったり来たり揺れる心を読み取り瞬間瞬間の対応を選ぶのに精一杯の時に、全く性質が違う成長と教育を受けて育つ同じくらいの子供の情報が入ってくると、情けないことに途端に迷う。迷いは子供に伝わる。
だから、腹を括り、根拠のない自信だけで決断した。
私の子育ては勘と好みだった。
それが果たして成功だったのかと問われれば、なんとも言えない。
息子がどう思っているかは別として、私の子供にしては上出来だと満足している。
公園を歩く。
すれ違うランナーや犬の散歩をしている人、横並びでおしゃべりしながら楽しそうに歩く高齢女性たちを観察しながら歩く。
お年寄り、あんな屈託なく笑う人が健康なんだなあ。犬同士が戯れあっている。飼い主同士はどうなんだろう、犬を散歩させている人がみんな交流し合うわけでもないんだ、この世界にも一人を好む飼い主はいる。それを知ってて諦めつつ遠慮がちにチラチラ飼い主を伺ってすれ違う他の犬と遊びたそうにしている犬。いろいろなんだなあ。いろいろでいいんだ。
私よりも年上の人たちがシャッシャッシャッシャッと走り追い越してゆく。しまった脚。のびた背筋。広い歩幅。
この人は家に帰ってからも普通に家事をやったり仕事に行ったりするんだろうか。すごいなあ。
街を歩く。早朝からハイヒールを履いてタイトスカートにツヤツヤの髪で横断歩道を小走りにいく女性。
この時間から綺麗にして。かっこいいなあ。とたんジャージにウィンブレ姿の自分がイケテナイと思う。
ドトールに行けば。スーパーに行けば。テレビをつければ。
目に入ってくる人が誰もが自分より力強く、美しく見えてくる。同時に自分はダメだなあと気持ちが萎む。
今日、朝の公園で視線を遠くに置いてみた。ずっと向こうにある木々の新録が美しかった。
そこに焦点を当てて歩く。音と気配と背景程度に視界に入ってくる人々は気にならない。
そうか。こうやって生きればいいのかもな。背景なんだ。私の人生においては。
テレビの中の人が立派に見えたからってではそういう仕事をしたいのか。
ハイヒールを履きたいのか。
溌剌と社会に出ていって企業で働きたいのか。
ちがーう。
私の子供の頃からの夢はサザエさんだった。
サザエさんみたいに家にいて、家族の中でドタバタ劇場をしながら濃く、暮らす。
のんびり、ボケッと、平和に暮らす。なんとも野心のないことだがずっとそれだった。
今私はどんな人になりたいかと言えば、あの手応え満載の夫相手にユーモア交え陽気に笑う妻。
それから時々ぺちゃんこになるような毒を言う姉と母たちをへへへと笑って流すおおらかな次女。
そして何を言われようがデンと構えている太っ腹な母ちゃん。
この三つを兼ね備えたしなやかな女。
そんな女に私はなりたい。それが私の目指す道。