10年

歯医者の担当の先生が移動になり次の先生が来るまでののつなぎとして院長が続きの治療を受け持ってくれた。

この病院を選んだ理由がホームページに載っていたこの男性の顔写真と自己紹介の文章だった。

ふくよかで目尻が下がった人の良さそうな笑顔、治療するというよりは日々のお口のケアを担当する役割として寄り添っていきたいのだと書いてあった。

退院して長い鬱から抜け出すきっかけとしてまず、歯医者に行くことを選んだ。まだ外の世界が恐ろしかったのでなるべく優しい先生がいいなあと思っていた。

予想通りだった。陽気で優しく、看護婦さんたちと時々沖縄に旅行するようでその時の写真が貼ってあり、先生を含めスタッフのあだ名が紹介されている。壁にはベストリーダーシップという賞を受賞した院長の写真があった。

そうだろうなあ。この先生なら。ベストリーダーって感じ。

院長のもとに集まった家族のようなところだった。

ある時、この病院が上のフロアに移った。学習塾だったところが空いたのだ。

そのころは治療も終わっていたので何ヶ月かぶりのクリーニングで新しいところに行ってみて驚いた。

入り口はホテルのフロントのようになり、看護婦さんと受付の制服が変わっている。それまで院長一人だったのが複数の先生になり、小さな診察室がたくさんできていた。

カウンセリングルーム、育児ルーム、待合室の壁には写真旅行の写真の代わりに大きなモニターが掲げられインプラントの紹介ビデオが繰り返し流れている。

顔見知りの看護婦さんも二人だけとなり、それまで院長がいつもやってくれていた健診は知らない先生になった。院長は奥の個室でインプラント専門になったようで姿を見なくなった。気がついたらどこにでもある、今時の歯医者さんになっていた。

それ以来、定期的に看護婦と先生が辞めていく。辞めているのか入れ替わっているのか。どこか大きな病院の研修先になったのか。受付の人がすぐ変わるのも派遣会社の人を採用するようにしたのか。

 

院長の治療を受けるのは10年ぶりだった。

お久しぶりですねと言われるかと勝手に懐かしさを抱いていたがそうでもなかった。

そりゃそうだ。ただの患者の一人なのだ。そういやこんな人いたなあ、くらいのものなのかもしれない。勝手に昔から通っている常連気取りでいたのが恥ずかしい。

4月だからかどう見ても息子よりずっと若い可愛らしい女性が助手につく。慣れない彼女は先生が求めている水準の補佐ができていないようで指導を受ける。

「それじゃない、あなた、もっと準備できてから呼んで。」

その口調が冷たく厳しかった。

私も自分が怒られたような気がして身が縮む。

・・・してくれるぅ?あ、そうそう、それ、ありがとねぇ。という私の好きだったのんびりした先生ではもう、なかった。

「はい」「すみません」「はい」

もしかしたら彼女のことを育てるためにプロとして仕事中はけじめをつけているのかもしれない。

すごくこの女の子に期待をしているからこそ、細かく注意をしているのかもしれない。

のどかな動物園の園長みたいだった院長は、やり手の腕のいい経営者の歯科医師に成長していた。

これがずっと彼がやりたいと思っていた世界だったのか。

ちょっと寂しい。

でも頭に当たる先生のお腹の弾力は変わっていなかった。