あの晩だったように思う

ラジオの投稿でこんなのがあった。

WBCの準決勝を息子と同じ部屋でそれぞれ配信とテレビとで観戦していたそうだ。反抗期真っ盛りで普段口も聞かない息子さんはあえて配信で観戦していたのだが、村上選手がホームランを打った時に、二人同時に「おおっ」と声が出たそうだ。そして思わず二人でグータッチ。投稿者はそれが嬉しかったようだ。

「雪解けですかねえ」。

案外、とっくに溶けていたのにきっかけがなかっただけなのかもしれない。

うちの場合はどうだったんだろう。

あれはなし崩しというか、それどころじゃないというか、突然のことだった。

息子が毎日大荷物を抱えて登下校していることに気がついた。

すでにその頃は不機嫌無愛想が通常だったのでこちらも必要最低限なことしか話かけない。それでもその荷物が気になって聞いた。

「上履きがなくなるから、盗まれないように毎日持って帰ってるんだ」

つい先日、上履きが消えたというので体育館用のを使っていたらそれもなくなった。新しいのを買ったばかりだった。下駄箱に入れて置いてまたなくなったら嫌だしこれ以上買ってもらい続けるのも嫌だ。こうしていれば取るに取れないだろうと考えた。

「ふうん、先生に言った?」

「言ったけど。ありゃダメだ。真剣に取り合ってない」

今よりもっと世の中を斜めに見ていた息子はむすっと答える。

「先生に私から言おうか」

「いや、いい」

キッパリ、断られた。

初めは男子校のやんちゃ坊主のいたずらかと見ていたが、何週間も続く。これは。。

いじめなのか、からかいなのか、息子がターゲットなのか、誰でも良くてあちこちで起きている被害なのか。

そんなことはどうでもいい。目の前の息子は明らかに参っている。

「無理やり割り込むつもりはないけど、先生に言おうか?」

断られたことを忘れたふりをしてもう一度聞いた。

「うん」

これが私と息子の休戦の始まりだった。

「じゃあ電話するよ。今。お母さんがどんな口調で何を言うか気になるだろうから、そこにいなさい。先生には息子がいないので内緒でかけていますって言うから。明日は知らんふりしてればいいよ」

素直に頷く。

やらねば。戦わねば。

学校に文句を言う神経質な親バカだと思われようがなんだろうが、ここは息子の信頼を勝ち取ることの方が大事だ。

担任は悪人ではないが、荒っぽく生徒を殴ったりもする。けれどユーモアがあり慕う子も多い。自尊心は高く、そのくせ保護者にはヘイコラする。

そんな裏表を保護者会で感じていた。

丁重に、でも毅然と、今現在起きていること、息子が困っていることを伝えた。

先生に報告したが流されたと言うことについては聞いていない風を装おった。

「そんなことが。それは知りませんでした。気がついてやれなくてすみません。すぐ対処します」

嘘ばっか。心で思いながら先生が暴走してしまうことを警戒する。

「犯人を探して欲しいわけじゃないんです。今現在、息子が困っているのでフォローをお願いできますでしょうか」

ああ、それはもう。お任せください。そのための担任ですから。

先生は強く正義に燃えた。

電話を切る。振り向く。息を止めてこっちを見ている。

「まずはこんなところで様子をみよう。先生がメールでやり取りしましょうって言うからきっと連絡が入るよ。そうしたらそれも全部見せるからまたそこから考えよう」

16歳が久しぶりに笑った。

「口調が穏やかなだけに怖え」

「舐めんなよ、あたしを。やるときゃやるよ」

さ、ご飯にしよう。へーい。

食卓でその話の続きはしなかった。あえて事務的に対処しただけのことだとしたかった。

いつものようになんの会話もしなかったと思う。