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歯医者に行って長かった治療がひと段落ついた。

子供の頃の詰め物がとれ、その中が神経まで膿んでいたのを全て綺麗にして新しい詰め物にしてもらった。

同じような状態の詰め物は反対側にもあり、まだ先は長いがまずは左、終了。

ずっと院長が担当だったが、病院が手広くなったようで院長先生はもっと高度の治療をする人たち専門になった。新しく私についてくれた女性の先生はちょっとぶっきらぼうで、怒ってないはずなのに怒られているような、けれど技術は繊細でちっとも荒っぽくない。

治療を説明してくれるのだが、どうしてこんなになるまで気が付かなかったのかと叱られているような口調にいちいち落ち込んだ。

ある時、仮の詰め物がグラついた。

診療日、いつも通り「何かお変わりありませんか」と聞かれたので真っ先にそれを伝えた。

「気のせいか、はずれそうに思うんです。」

「痛みますか?」

口調が強い。

「いえ、痛みはないです」

「そうですか。・・・うーん、大丈夫そうですよ、今日は反対側のレントゲンを撮って土台の確認をします」

先生はグラついていると訴えた方をツンツンとつついてみてからそう言った。

やっぱり神経質に反応したのかもしれない。確認してくれたのだからとそれでいいやとそれ以上は言わずに帰った。

その日の晩、カポッと取れた。

ああやっぱり、微妙な本人にしかわからない程度の違和感だったのだ。

どうしようかと迷ったが、どうせまた4日後に行くのだからいいやと、そのまま取れたものをテッシュにくるんだ。

「やはり取れちゃいました」

診察台に乗ってすぐ、そのテッシュを見せる。

なるべく自尊心を傷つけてはならない気がして、できるだけ陽気に言った。

「あっ・・ごめんなさいね。そうおっしゃっていたのに。ごめんなさい。大丈夫だと思ったんですけど。ご不自由だったでしょう」

笑いながらでもなく、本当に、申し訳なさそうに謝られた。

ぶっきらぼうで怖いと思っていたのは、誠実さだった。

余計なご機嫌取りはしない、ただ、実直に治療計画をたて、必要な処置を考え、進めていく。

ちょっと人見知りなのだ。きっと。それは私と一緒。人見知り同士の顔合わせだったのだ。

思わず先生の人柄が感じられ嬉しくなった。

それ以来、彼女の方も私という人間を自分の患者だと受け入れてくれたのか

「ごめんなさいね、ちょっとチクっとしますね」

それまで無言だった治療時間に、所々、ぽっと言葉が入るようになり、時には、髪を切りすぎたなどと照れた表情を見せたりしてくれるようになった。

絆ができた気でいた。

昨日、第一段階の治療が済んだので別室でこれまでの経過をレントゲンを見せながら説明してくれた。

「それでですね、あの、私事なんですが」

あら、ご結婚なさるのかな。

「実は私、4月から別の病院に行くことになりまして」

「えっ」

思わず声がでた。

せっかく。

せっかくこの先生を好きになって安心しきって自分を預けていたのに。

「申し訳ありません、本当はもっと早くからご連絡しなくてはならなかったのに」

表情に出ていたのか、そう付け加えて頭を下げられてしまい、ハッとする。

いかん、なんにせよ、新しい門出なんだ。気持ちよくお別れしないと。

「ありがとうございます。先生には本当にお世話になってよくしていただきました。」

「最後までできなくてごめんなさい」

やはりいい人だった。

 

帰り道、意味なく寂しかった。

なんで歯医者の先生がいなくなるくらいでこんなに堪えるんだろう。

いつもはバスで帰る道のりを、歩く。

知らない家の前で、スーツ姿の男の子がおじいちゃんとおばあちゃんに挟まれ、はにかみながら写真を撮られている。

その脇に立っている若いピンクのスーツ姿の女性が母親だろうか。

撮っている男性が父親か。

あったなあ。あんな時期。

息子のその頃ももう戻ってこないと、突然妙な気持ちが浮かぶ。

春だわ。

春って別れの季節だった。

そして旅立つとき。

新しい何かに向かう。この私も。