気がついた

このところ、ブログを書くのになんとなく気後れしていた。

迷いというのか、自信の無さというのか。

こんなの書いてさあ。。私の文章ってどうしてこうなんだろう。魅力のある文章、書きたいなあ。

子供の時お絵描きが好きだった。幼稚園でハッと気がつくと周りにはもっと上手な子がたくさんいて、参観日、全員の絵が壁に張り出されたら「うちの子のが一番下手だった」と帰ってきた母親が食卓で発言した時のあの、しぼんでいった感じ。

あれに似ている。

先週、従姉妹がイラストの個展を銀座で開いた。それを一人で見に行ってきた。

彼女の描くものは毎日の中での小さな「あ」を切り取っている。一見、さらっとノートの隅に書いた落書きのようにも見えるそれはセンスが良くて小気味いい。

職場でいきなり大きな声を荒げて説明する人。

ご贔屓のカフェがなんの前触れもなく突然閉店したこと。

散らかっている自分の部屋。覚えられない人の名前。

どうでもいいことなんだけど、彼女のセンサーに引っかかった一場面が小さな藁半紙に表現されて、無造作に壁にテープで貼ってある。

ハガキサイズのそんな作品が6畳ほどの小さな部屋の壁ぎっしりになっていると、そこは彼女のワールドだった。

銀座の地下に突然現れた彼女の宇宙。毎年一回、どこかに出現する。確かに自分の居場所を作っている彼女を誇らしく思う。

足の怪我で、母は留守番をした。

「親戚なんだから顔を出さないと悪い」

いやいや、80過ぎて不自由な体でこられても、向こうは恐縮するよ。

「小さな作品集買ってきてあげるから」

「あああれね。しょうがないから三つ、買っておいて。」

母は彼女の絵のセンスが理解できない。あんなの、芸術じゃない。かわいそうに。誰もあんなの評価しないのに諦められないのねと言う。

「いやいや、インスタグラムでも毎日発信しているけど、結構ファンも見るみたいだよ。個展の案内にも楽しみですってコメント、たくさんあったよ、あの味はハマる人にはハマるよ」

やんわり、あなたにはわからないだけなんですと何故か私がムキになる。

「かわいそうだけどあれじゃプロにはなれないわ」

それでもこのあたりまでは、「ふふん、あの良さがわからないのね」と得意になっていた。

私はお付き合いでイヤイヤ行くんじゃない、本当に好きで楽しみで行くんだと。

帰宅して、作品集を渡す。

「こんなのに800円、値上げしたわね」

いちいち一言多い。

意見の相違について語り合うと揉めるので早々に引き上げた。

数時間して母がやってきた。

「あれ、見たけど、今回は作品の質が落ちたわね。前の方がまだよかった。へんてこりんなりにも前の方がきらっと光るのがあったけど今度のはなんか、惰性って感じ。荒れてるわよね」

そんなことこれっぽちも思っていなかったのでショックだった。

「私はそんなふうに感じなくて、どれもいいなあって思って見てきたよ」

私は絵の展覧会もよく行くし、見る目はある。身内贔屓じゃなくてプロデューサーの視点から見て言ってるのよ、絶対質が落ちたわと譲らない。それを笑顔で威張って言う。

「そうかなぁ。相変わらずいいセンスしてると思ったけど」

そんな評論家のような観点はこれっぽちもなく、ただいいなあと眺めただけだった。

「なんか勢いがなくなったわよ」

「まあ、ピカソだって有名な作家だって誰しも波はあるだろうし。コロナで息詰まった苦しさもあったのかもしれないし」

認めたようで悔しい。

「やっぱり一人でやってると知らず知らず、そうなるのよ。」

そう言い残し、帰って行った。

落ち込んだ。なぜか私が悲しくなった。

母にはこのブログを読ませたことなどない。恐ろしくてそんなことできるはずもない。

それでもあれからずっとブログを書くたびにドヨーンとするのは自分のこの小さな宇宙もくだらないものだと気がついてしまったからだろう。

夢中になってお絵描きをしていたところに、ピシャッと水をかけられて恥ずかしくなったあの子供の頃の気持ちと似ている。

ドヨーンの正体に気がつくのに一週間かかった。

 

従姉妹が個展の最終日に、インスタでお礼のコメントを書いていた。

「これで収益を得ようとか思っていません。それでも何人かの方が楽しかったと言ってくださったこと、嬉しく思います。これからも毎日描きます。いつかまたお会いしましょう」

そうだよな。それでいいんだ。

私は何になろうとしていたのか。私の宇宙はここ。細々と楽しく続けたい。