ヒーロー

お雛様を出した。

母方の祖母の作ってくれた木目込みの真多呂人形だ。ケースもなく、御代理様とお雛様だけの質素なものだ。

私が結婚を決めた時、風呂敷に包んで持ってきてくれた。

「お姉さんの雛人形はあるけどトンちゃんのはないから。これを持っていけばいいと思って」

嬉しくて毎年飾っていたが、体調を崩してしんどくて出さなかった年があった。その5月、私は倒れた。

よくお雛様は災いを肩代わりしてくれるとも聞くが、私個人に限っては信じている。

102歳まで生きた祖母はあっけらかんと強く、逞しく、おしゃれで、人懐っこく、頑固で愛情深い人だった。

夫を40代で亡くし、息子にも先立たれたり、お嫁さんに拒絶されたりと朝ドラの主人公にもなれそうな人生だったが、いつもケロケロしていた。

「あの人はちょっとネジのおかしい人だから」

母が呆れたように表現するのをずっとそうだと思い込んでいた。確かにやることなすこと素っ頓狂で面白い。

もらったお小遣いはその日にハンドバッグを買って母を怒らせた。生活の足しにして欲しいと、必死にやりくりして渡したお金だったのに、あの人は人の心がわかっていない。

祖母は、娘が無理をしてお金を作ったなどと想像しない人だった。わーい、と喜んですぐ使ったのだった。

当時、ありゃりゃと思ったが、今になってみるとその健全さがいかにも祖母らしく、好きだ。

まだ幼稚園の年少だった。千葉の習志野市に住んでいた私たちのところに、神奈川から祖母が泊まりにやってきた。

一緒に二人で買い物に出かけたその帰り道、坂道の途中で自分より小さな坊やが大泣きをして突っ立っていた。

絵本の中の子どものように「えーん、えーん」と声を出しているのを見て、本当にこうやって泣く人っているんだなあと思ったのを覚えている。

周りを歩く人は他にもいたが、あら、と振り返るくらいで様子を見守るような距離でその子を見ている。

祖母は「トンちゃん走れる?」と私の手を引っ張り駆け出した。

私が4歳だったから彼女も60代の頃だったと思う。

その子のまえにしゃがみ込んでどうしたの?ママがいないのと声をかけた。

「うんちしちゃったぁ」

そう言ってまたえーんえーんと声を上げる。

そばにいた私は、いったいどうするつもりだろうと戸惑った。車の走る坂道の途中でうんちなんて。トイレもない。店もない。おばあちゃん、どうするの。

すると祖母は持っていた八百屋の紙袋をビリッと破いてくしゃくしゃと揉んだ。

それからその男の子のズボンとパンツを脱がせるために私に盾になるよう指示をした。

「トンちゃん、ちょっとここに立ちなさい、そこじゃない、ここっ。ここだってば。オチンチンがみえちゃうでしょっ」

テキパキ、その子のお尻をふき、パンツを脱がせ、ズボンだけを履かせた。「泣かないの、大丈夫だからねっ、ほらっ、大丈夫でしょ」

そう言い聞かせる口調は子ども相手の優しいものでもなく、掛け声のようだった。

坊やもいつしか泣き止み、されるがまま。祖母は汚れたパンツを別の袋に入れてその子に渡し、お母さんに洗ってもらうように言った。

コクンコクンと頷くけれど勢いに圧倒され何も言わないその子に別れ際、八百屋の破れた紙袋から蜜柑を一つ、取り出して手渡した。

「うちは近いの?そう。一人で帰れるね。じゃあね」

そして私の手を取って「お待たせ、帰ろう」と笑った。

お尻を拭いたその手を汚いと思わなかった。ヒーローのようだった。

 

だからうちのお雛様はどこか、かっこいい。