希望の朝

ラジオ体操に行くようになって本気の体調管理をするようになった。

自分に軸を置くようになったと言うのだろうか。

それまで、無意識のうちに周囲の動きに合わせ、その瞬間瞬間の立ち位置を探るように過ごしていた。

生活すると言うより、過ごす。毎日、とりあえず「多分、これが正しい」という行動を選んで1日が終わる。また次の日が来る。

そんな感じ。

優しいというか、気配りをよくするというか、常に落ち度はないだろうか、咎められるようなことをしてないだろうかとそっちに気を張っているから状況や誰かの言葉一つに大きく反応し、あっちにふわふわ、こっちにふわふわ。まるで杭の刺さっていない棒っきれのようだった。

 

たったひとときの朝の時間を確保したくて、そのために早く寝る。

そのために無理をしない。

そこに標準を合わせて自分の時間を使っていく。

明日の朝、行くための体力を使い果たさないようにと、限りあるエネルギーの分散をしていくと、無駄に使いたくない。

外せない順に体を動かしていくと、あの人にどう思われる、この人にどう評価される、などどうでもいい。

朝、外を歩く。いつもの場所でいつもの人たちが集まってくる。誰とも会話をしないが居場所があるのがわかる。その中に混じって10分間。そしてまた歩いて帰る。

それで始まる1日が、昨日までの何かをジャブジャブと洗って綺麗なものにしてくれる。

あったーらしい朝が来た、きっぼーうのあーさーだ。

まさに。

そんな簡単に真っ白に消え去ることのできないことも、たまに浮かび上がって脳内にこびりつく。

それでも、朝、新しい朝になると、まあなんとかなっていくだろうと新しい発想が不安を上書きしてくれるのだ。

無意識のうちに自分がとこに流されていくのかわからなく不安だった。

目立つ手柄はいらないのだ。自分を信じて、安心して自分を喜ばせながら日々を重ねる。

過ごす1日ではなく暮らす日々。

今はそう思いつつある。