優しくなりたい

読んでいた本の中に、著者の娘の日記が組み込まれていた。

著者本人の日記の後に同じ日の記録があるのだが、視点が親と子供ではちょっと違うのが面白い。

親は午前中、家の雑事をあれこれこなし、家の修理業者の段取りの悪さに家事が捗らないと不満を持つ。気持ちを紛らわすためギターを爪弾いたら思いの外、熱中してしまい気がついたら夕方で夕飯はありあわせになってしまった。気持ちは吹っ切れていたからよしとする。

彼女の『今日』は段取りの悪かった業者に振り回された1日だったのだろう。ギターはおまけ。

ところが、娘の日記には「お母さんは今日はギターを弾いていた。お母さんのすごいところはやり出したら集中するところ。ギターを弾き始めたらそれに集中してご飯も作らない。すごいなあと思う。私にはそういう集中力が足りないと尊敬する」とあるのだ。

子供ってそんなふうに見つめるのか。

何かに夢中になって家事に皺寄せしちゃならぬと、集中しそうになってくると切り上げる癖がついている私にはちょっと新鮮だった。

まだまだ、いい主婦であろうと、いい母であろうとしているのだな。

自己満足であるような気が、最近する。

もう家族全員が成人なのだから、今、私に求められているのはそこじゃない。気がする。

いい主婦である前に実際の私でありたい。

実際の剥き出しの私はきっともっと怠け者でわがままだ。

チマチマチマチマしないで、もっと豪快に、もっと力強く、なりたい。

そうしたら、きっともっと優しくなれる。気がする。