相棒

どこまでうまく伝えられるか自信がないが。

最近、いろんなことに興味が湧いたり、会話の途中で声を出して笑ったり、ぷっと膨れたりする。

これは子供の頃、主に小学生、の頃のヤンチャだった私に戻っている傾向だ。

自分としては好ましい。周囲としては面食らっている部分もあるかもしれない。

しかし本人としては呼吸がしやすくなったように思う。感情が循環している。

大学生のあたりから心の中に疑問や違和感、それから恨み、疎ましさ、苛立ち、そんな負の感情が築き上げてくる衝動があった。

そして悲しみと寂しさ。誤魔化してきた劣等感。

それでもそれに向き合わず、毎日笑っていなくちゃ、陽気に陽気に明るく、私の取り柄はそれくらいなんだからと変な力で自分を縛っていたら、だんだん自分が何を感じて何を喜んでいるのかわからなくなってきた。

家族の機嫌を取るためにユーモラスにしているのか。怒りたいけど引っ込めて笑ったのか。

誰かを恨んだり傷ついたりするたびに乱高下する感情に疲れて、知らず知らず、感じない心を作ろうとするようになった。

仏のような包容力を身につけたいと願った。

反応しない練習。そんな本も読んだ。

誰かの言葉も頭の上を通り過ぎていく。そう簡単になれば楽だけれど、実際は、特に肉親の言葉というのはいつまでも頭に残りこびりつく。感じない。感じない。感じない。

心を麻痺させていた日々が続いた。何年も何年も続けているうちにだんだん上手になって、自分がどう感じているかなんてどうでもよく、つつがなくその日を終えることができるようになる。

長い長い鬱だった。

洞穴からでて、外の光を浴びても初めは眩しくて目を開けていられない。

キラキラするもの全てが鬱陶しい。

ドラマも、ラジオもテレビも、友人も、映画もおしゃれも。

やっぱり怒っていいのだ。

悲しんでいいし、劣等感でもやもやしてもいい。

傷ついてもいいし、誰かを傷つけてしまったかもと反省してもいい。

感情から生まれてくるものってあるんだ。

それは生きてる実感と喜びと手応え。

平坦さより、ときに荒れ狂ったりはしゃいだり、浮かれたり落ち込んだり。

それが感じてるってこと。生きているってこと。

辛くても。それすらも。

それらすべて味わっているから、面白いものを求めてキャッチするのかもしれない。

面白いものを生み出すのかもしれない。

美しいもの、激しいもの、心揺さぶるもの。

感じない練習から、感じている自分を手放す方向に変わった。

ああ、今怒ってるな。今、傷ついたんだな。悲しいのね。あ、劣等感が顔を出した。

いいのいいの、それもいい。

お一人上手で、自分に語りかけるもう一人の私がいる。

このもう一人の私が未熟でヘンテコリンな自分に寄り添ってくれていると思うと、強くなれる。大抵のことはどうでもよくなる。

なんだかわからないけどとにかく大丈夫!と思えるのだ。

誰もわかってくれない。とメソメソしていたのは、実は自分で自分をちゃんと引き受けていなかったから。

この人にだけはわかってもらいたい。その誰かを探していたけど。

ここにいた。それは私自身だったのだ。

ちょっと生きるのが楽しくなってきた。

遅い。全てに遅い私である。