目の前で起きているできことと感情を切り離すハサミがあったらいいと思う。
起きているそのこと自体は現象で意味はない。意味づけをしているのは私の反応と感情。
だからそこを繋いでいる紐をパチンと切れる道具があったらいい。
辛い時期、そのことに気がついた。そうか。感じるから悲しいのか。
感情全部の元栓を閉めた。
そうしたら暗い穴の中に入って暮らしているようで、傷つくこともなく、怖いものもなく、淡々とした時間だけが残った。
けれどそんなことを続けていると「私ってなんのためにここにいるんだ」とそもそものところに行き着く。
何も感じない、やるべきことをこなし、日を送る。何やってんだっけ、何しにここに来たんだっけ。
別に今死んでも大丈夫かもなあ。
本気でそう思う時期が長くあった。
感情は大事なのだった。
何も感じないのは、寂しい。
怒りも悲しみも、恨みも悔しさも、軽蔑も自己嫌悪も不安も恐怖も、持ってはならぬものなんてないんじゃないだろうか。
たとえ、その反応や発想が稀で少数派だとしても。
浮かんでいいんだ。浮かぶのはあたりまえ。自然現象なんだから。
浮かんでは手放す。
全て、浮かんでくるに任せて感じて、そして手放す。
ああ、今、傷ついたんだ。
ああ、今、悲しんでる。
あ、これはやきもちだ。
寂しんだ。
お、喜んでる、喜んでる。
はしゃいでるなあ。
コントロールしないで、怖がらないで。ただ、感じていい。
制御しようとすればするほど、自我は暴れる。
なかったことにしようとすればするほど、「こう感じたんだっ!」と強く主張してくる。
一回「はいはい、わかったわかった」と受け取って「そうかそうか」と抱きしめてやるとなんとなく、なんとなく幸せのような、安心感がまた浮かぶ。
存在を認めてもらった困った感情たちは、私を支配しようとしなくなり、おとなしく消えてゆく。
子供の相手をするように、そうかそうか、大丈夫大丈夫と、繰り返すと、けっこう強くけっこう楽しく、けっこう呑気になる。
春、みーっけ。