あたし、なんのために生まれてきたんだろう
そんなことを考えそうになるときは、疲れているサイン。身体が疲れると発想が私の場合、暗く深刻になる。
笑ってやり過ごせばいい事も、考えてもどうしようもない事も解決策があるはずと、原因は自分の中にあると、とことん掘り下げる。この穴を墓穴と呼ぶ。
墓穴を掘り出す最初のサインが「あたしってなんのために」なのだ。
テレビや文壇、舞台、病院、学校、芸術、インターネット。きらりと光る存在を見つけるたびに自分は何か間違ってここまで歩んできてしまったのではないかと、うっすら思う。
それは努力とか鍛えるとかを避けてきた後ろめたさなのかもしれない。
でも最近考える。
きっと私は子供の頃に戻してもらってもやっぱり、隠れて漫画を読んで、欽ちゃんのテレビで馬鹿笑いし、ピアノの練習も不真面目で友達とくだらないおしゃべりをし、野心も目的もない日々を送るだろう。
大きくなったら主婦になる。そう思っていた。サザエさんの世界に憧れた。
自分の家庭が欲しい。それしか思い浮かばなかった。
やっぱり稚拙な夢だったのかなあ。
夫の人生に関わる存在として、息子をこの世に呼び出す役目として、母を選んで父を選んでやってきた。
そう考えるのが一番しっくりくる。
これも自分の流されるままの生きてきた道のりを正当化しようとしてる強がりなのかしら。
私は私を満たすために生まれた。
そういうことじゃないかな。
やめよう。きっと疲れてるんだわ。
今日はのんびりドラマを観ようっと。
・・・こうなったらお気楽道を極めるのもひとつの在り方かもしれない。
心身の健康を保ち、家庭内の平和を保ちつつ、お気楽さを常に味わい、漂わせる。
ああ、そうだ。私がなりたい私はたぶんこれ。これだ。
目指すところが見つかった。
なんだか安心した。