同じ空の下

朝、結構多くの人がジョギングや犬の散歩で活動している。

 

夏の初め頃、落ち込んだ気持ちをさっぱりさせたくて思いつきでこっそり早朝、家を出た。

まだ半分眠っているような街を歩くのが新鮮で、気持ちが弾んだ。

家族と自分を確実に分断する時間を欲していたのかもしれない。

24時間やっているスーパーに通ってみたりするうちに、やがて近所の公園でやっているラジオ体操に出会う。

出会うと言ってもずっとそこでやっているのは知っていた。しかし入院以来、走ることも歩くこともやっとの私とは別の人種だと、遠く眺めていた。

さっぱり割りきれていたわけではなく、それができなくなった自分が信じられないような悲しいような、鬼門のような場所になっていた。

やってみようか。なぜかそんな気になった。

無様でもいいではないか。そう思う人がいたらそれはその人の人間性

やってみると、やっぱりあちこちできない。ジャンプもできない。

それでも参加してみるかという自分の変化が嬉しかった。

それから何かにとりつかれたかのようにせっせと通う。

ただ、行って、体操をして、帰ってくる。

出来上がっているコミュニティーの端っこにしれっと存在するこの女を、周囲もお馴染みのと認識してきた。

初期設定がヘンテコな女だからとても気が楽だ。

ここではすべてから解放される。

自分が何者なのか、確認する。

毎朝人間たちがやってきて、同じように身体を動かし、同じタイミングで飛んだり腕を回したりする。

その全体を見ていると、笑って会話している人達も、仏頂面の人もきっと何かめんどくさいことを少なからず抱え込んで、でも今日もやってくかと、ここにいるんだと思えるのだ。

平等。

お金持ちも、つましく暮らすひとも、健常者も、そうでない人も、大人も子供も、みんなきっと、同じくらいの陰と陽の比率を味わって生きてしんでいく。

それぞれ人生のどこでどの密度でかはそれぞれなだけで、結局は同じなのではないだろうか。

あたしはこの私を今日もやろう。

いい人になろうとするのじゃなくて、いい方に向かうように過ごそう。

なぁんて思いながらピョンと、跳ねた。