雨上がりの休日の朝。
金木犀の香りが街から消えた。
お父さん、帰っていったんだな。
学生の頃だったか、社会人になってからのことだったか。
結婚するまで私の住んでいたところは神保町のビルの上で、散歩をしても店と会社と学校と道路に囲まれ、自然というのは皇居に行って感じるようなものだった。
いつどこでだったかも忘れたが、金木犀の香りをいい香りがしたと話すと、晩酌をしながら父はこう言った。
「オレ、あれやだ。トイレの匂いなんだもん」
「それは、芳香剤の会社がみんなが好きな香りだっていうんでそっちに寄せただけでしょう。金木犀が先。」
そう憤慨すると面白がって
「そんなこたあ知らないね。もうあれはトイレの匂いだ」
と笑った。
うちは芳香剤を使う家ではなかったから、今にして思えば父のネタだったのかもしれない。
気難しく気取りやの父は、酔うとわざとべらんめえの口調になって理屈っぽいことを言ってきた。
私は機嫌のいい父とのこんな問答が好きだった。
結婚して、父の命が限られていることがわかり、二世帯同居を始めた。
夏に引っ越し、初めて迎えた秋の初め、いたるところから甘い香りがする。
我が家の裏にも植木屋さんが金木犀の木を植えていた。
神保町で生まれ育った父は、こういうのに慣れていない。
「もうやだなあ。僕の家がトイレの匂いになっちゃう」
そう言ってまた家族を笑わせた。
そこには夫も、2歳の息子も座ってゲラゲラ盛り上がるのだった。
2歳だった息子がもうすぐ24になる。
金木犀は相変わらず毎年、同じように秋になるとやってくる。
あれからこの香りがする間は父がそばにいるような不思議なときになった。
金木犀の香りが街から消えちゃった。
やだよ、トイレ臭えんだもん。オレ、帰る。
そう悪ぶって笑っている顔が浮かぶ。