映画を観て来た。
悲しみと優しい笑いと希望のつまった濃い作品だった。
癖の強い登場人物と主人公のやりとりで、ところどころクスっとする場面が散りばめているのに、客席からも笑い声が聞こえてくるのに、どこでも笑ったりできなかった。
ベースに悲しみが流れている。
その中で、どの人も笑っている。
嫌だなあと距離を置いて付き合いたいような隣人も、消えることのないものを抱え、でもそれをかき消すように主人公を巻き込み絡み、笑っているのだ。
この作品が伝えたいことは別にあるのかもしれないけれど。
母のことを思った。
支えであった父を失い、母親も死に、向き合えばバランスの崩れてしまう現実の中で生きている。
私の病気もそうなんだろう。冴えないパッとしない頭の悪さも。
こんなはずではなかった、私の子育てと、そばで見えるから突きつけられる気がするのかもしれない。
なんとか笑いを、気持ちの安らぎを無意識のうちに探して生きているのだ。
映画のめんどくさい隣人はそのデフォルメかもしれない。
主人公は拒絶せず、受け入れるでもなく抵抗もしない。
次第に景色のように彼の暮らしに馴染む。
深入りはしないけれど切り離さない。
出てきた人それぞれ、大人も子供もやりきれない笑えないものを持ちながら、それと共に暮らしている。
生きるってこういうことなんだなあ。
光と影とか、いいとき悪いときとか、勝ちとか負けとか、意味があるとか無いとか。
そんなふうにキッパリさっぱり区切れるない。
悲しみも不安もおかしみも、希望も全てないまぜで、でてきたりひっ込んだり、引っ込めたり引っ張り出したり。
そんなふうにして。
母が私を笑ったり馬鹿にしたり、苛立ちをぶつけたりするのにいちいち傷つくのはちょっと違うのかもしれない。
笑いの種になって彼女が一瞬でも悲しみを忘れるのだったら、自信を保てるのなら、それは誇りある役割と思ってもいいかもしれない。
卑屈にいじけるのではなく。
そう感じながら画面を観ていた。
やっぱりこちらから近づいてはいかない。
でも、振り払わない。恨まない。
反論したり意見を言ったり、嫌がられ、批判されながら、ときに一緒に笑い続けていくんだ。
そういう親子。
娘時代のように、一緒に買い物や旅行は苦手だけれど。そういう娘である自分も許していいように思えた。
私にちょっかいを出してからかって笑って元気になるのだな、あの人は。
そしてどうしても安心してこの次女を大丈夫と思いきれないから、ときどき苛つき疑う。
よいか。それで。
多分これからも、ひどいなあと凹むだろう。思考の癖で。
でも、今、こう考えたことは、これからを少し変える気がする。
母と姉に揶揄われることは、二人に幸せな時間を作っていることかもしれない。
嗤われるのを恐れない。
信頼されていないのは残念だが、それもそうなんだから仕方ない。割り切ろう。
川っぺりムコッタ。
荻上直子監督、ありがとう。思い切って観に行ってよかったです。