薄い1日こそ私の象徴

モヤモヤの原因は漠然とした不安と不満。

自分軸がやわやわで、目に入るもの、耳に入ってくるものにすべて反応し、その度に瞬間的になにかを考え何かを脇に置いて行動したり考えるからだ。

では、思うがままに、好みのままにすごすぞと意気込んでも、情けないことに自分がなにをしたくて、なにが好きなのかよくわからない。

ずっと周囲とのやり取りの中で、何を求められているかを掬い取って行動してきたから本当に夢中になれるものがなんなのか、それってどんな感じなのか、ふわふわしている。

海外ドラマ、軽いエッセイを読むこと、散歩、優しい音楽、ラジオ。

旅行も、買い物も今はしんどい。

このまま私はこんな感じでずっといくのか、それでいいのか、なにか掴みたい、でもなにに手を伸ばせばいいんだか。

 

そういう所に今、いるんだなとわかったことはよかった。

方向性を見失って途方に暮れている現状は同じだが、現在の立ち位置が把握できたので、恐怖心は消えた。

そうか、訳のわからないこの苛立ちは、無気力になっていることへの焦りだったのか。

今、私は、道に迷って、どう動いたらいいのか、どこに行きたいのかすらわからない。

ただ、迷っているなということだけは本能的にわかっている。

だから毎日が無気力で、虚しく、そして焦って苛立っている。

 

そんな時期もあるさ、長い人生。

これまでももっとひどいのあったじゃないか。

焦るな・・じゃない。

焦ってるんだなと、それでいい。

ああ、わたし、今、苛立って無気力なんだな。

そうかそうか。

 

今日はやる気のないまま、無秩序に過ごした。

とりあえず、なにか行動してみようとするのもやめた。

だってそれ、本当にやりたいことじゃないんだもの。

なにかしなくちゃと思っての行動だから。違うことなのだ。

朝の散歩。カレーを作って、洗濯して。ラジオを聴いて、ドラマを観て、ユーチューブを見て、スーパーに行く。家の前でお向かいのおばさまと立ち話。パンと野菜とチーズとコーヒー。ちょっとのクッキー。お昼を食べながらドラマ見て、本読んで、机の向きが気になってああでもないこうでもないと動かして。カーペットの位置をずらして、また本の続きを読んで、またドラマを見て。

たぶんこのまま、夕飯を食べてお風呂に入って、寝る。

薄い1日だ。

でも、もしかしたらこれがもっとも私らしい1日なのかもしれない。

誰の批判も気にせず、自分を律することもせず、有意義さも求めず、ただ、ダラダラと過ごす。

自分軸。轍のように、それは振り返って最期になって、見えてくるのかもしれない。

それでもいっか。