美しき誤解はそのままに

夫は2日連続の出社となった。

「トンさん、ごめん、明日も急遽会社、行かなくちゃならなくなっちゃった。ごめんね」

「あら、そうなんだ。大変なんだね」

「ごめんね」

二人がバラバラに降りてきて、2時だの4時だのに昼ごはん、場合よっては抜く。それを気にしながら過ごすのは地味にめんどくさい。どちらか一人ならまだ楽だ。

夫は自分が家にいないことを私が喜ばず、家にいることを歓迎していると思っている。

けっして違うわけではない。やはり居てくれると妙に気持ちが安定する。

しかし同時に出かけると聞くと、ちょいラッキーと思うのも事実なのである。

夫が料理上手で自分の食事を勝手にやる人ならいつも家にいたらいいと思うのかもしれない。

勝手なものだ。

連休明けに仙台に二週間の出張が入るかもしれないと言う。

一瞬、ちょいラッキーのランプが点滅する。しかし、二週間はちょっとなあとひっかかる。

コロナのせいか、今はたった14日間でも長いと思う。何事もなければいいなどと考える。

こっちもあっちも。離れている間になにも起こらないといいけどなあと思う。

単身赴任の2年間だってそんなことなかったのに、どういうことなのか。

コロナだの、戦争だの、事故だの、災害だのが耳に入ってくるなかで暮らしていても、自分は振り回されていないと信じていたが、やはり、知らず知らず過敏におっかなびっくり用心深くなっているのかもしれない。

玄関で靴を履きながら

「そうだ、例の出張ね、行かなくてすむかも。まだわかんないけど可能性として」

「あら、そう。よかったね」

「うん、うまくいけばね」

このときの「あら、よかった」は美しき誤解ではない。