素っ裸

金曜日に例の紹介状を書いてもらった精神科、看板はクリニックとなっているけれど精神病院に初出勤。してきた。

つ、つかれた・・。

そしてちょっと感じた違和感。

もうちょっと早く、ここに来ていればね。と先生が仰った。

確かに私の中ではもうだいぶ整理がついていて、新しく構築しつつある価値観や生き方に後押しが欲しかっただけなのだと気がついた。

先生の初診の前に問診と称してプロのカウンセラーの年配の女性が話を40分ほどかけて聞いてくれた。

この段階でもう充分だった。先生にお会いしたところで、今更どこをどうして欲しいといった症状はないのだ。

本当はある。

実は私はうまく食べられない。

痩せ願望ではない摂食障害なのだ。

とくに母との食事がうまくできない。とても神経をつかってしまう。

母と外出せねばならぬとき、家族で合同会食すると決まったときから落ち着かない。

だいぶよくなったが、軽いパニックになるのだ。

母の作った料理はもっと苦しい。

食べろといわれて食べるが飲み込めない。飲み込む、苦しくなる。

ドキドキしてソワソワしておかしくなるのだ。

そこから派生して人と食事をとることも、緊張する。

これは結構しんどい。

人と会うのは好きだがここがネックになってしまうのだ。

わたしのそんなことお構いなしでお相手が好き勝手に食べてくれれば楽なのだが、そんな不自然なこと、なかなかそうもいかない。

母への葛藤が昇華されつつある今、なんのためにこんなことにこだわってるんだ私は。自分の人生を楽しめないではないかと自分に問い、その馬鹿馬鹿しさをわからせようとする。

だが、怖いのだ。

痩せ細った身体はたぶん私自身のくだらない自己主張とアイデンティティであり鎧。

それを手放したとたんまた、母に姉に馬鹿にされる惨めな自分に直面しそうで怖い。

逃げ場がなくなるようで。

誰かに応援してもらいたかっただけだったのかもしれない。

手放すことで身体も精神もまとう空気感も変化するだろう。それに伴走しながら「だいじょうぶ、今のあなた素敵だよ」と肯定してくれる人が欲しいだけの甘え。

それを求めて出向いたのだろう。

摂食障害で病院に行く人はたいていがもっと若い。

そしてもっとなにも食べられなかったっり、親子間がこんがらがっている、まさに現場から助けを求めている人たちだ。

白髪のお年を召した穏やかな口調の男の先生も、私と話してから「もっと早くここにこれたらよかったのにね」といった。

 

もうこの問題は終わりを迎えているのかもしれないな。

山を越え、今は息を整えている時期なんだと感じた。ここからは自分の足で歩くしかない。

病院にいかないと至らなかった感覚だからやはり行ってよかった。

くだらないけど大きな一歩だった。

 

だからといってさあ、今日から普通になんでもとはいかない。

けれどここに書いちゃったことでますます、こだわってる意味が薄くなっていく。

書いちゃった。

もう、このブログの中の私は素っ裸。

全部晒した。

意図して隠していることはなんにもない。なんにも。

この晴れやかさはなんだろう。

 

生まれつきの虚弱と子供の頃にやった小児てんかんと、一番隠していたかったこの摂食障害

これが私の闇だった。

でもこれこそが私の個性かもしれない。あまりにカッコ悪いけど。

 

今の心境としては「治そうと思うと苦しいから、このままうまいことつきあってけばいいかな」となりつつある・・・気もする。

 

ここまで苦しかった。

クリニックは一応来月予約してある。

カウンセラーのあの女性にまた会いたい。

先生は。まあ、どっちでもいいかな。

カウンセリングも自分を悲劇の主人公にしそうで今の私には向かないかも。

 

あまり決めないで流れてみよう。

 

なんか、ごめんね。重い話でしたね。ごめんなさい。

でも気持ちは前向きです。自分がいい方向に向かって進んでいると、そんな気がするのです。