私について

自分の中の真面目ってなんだろう。

真面目だねとよく言われる。

そのたびに、その含みには気の毒そうなものがあるようにも感じる。

それは大人になってから。子供の頃・・何時ごろまでだろう。就職する頃もまだ、真面目と称されるのは褒め言葉だと受け止めちょっと誇らしい気分になった。

真面目な私。

それが唯一私の取り柄。

勉強のできた姉は超難関私立中学に行くようになってから見事に不真面目を演じるようになった。

「鉄の檻に入れたと思ったらこっそり鍵を盗んで抜け出してもぬけの殻なのよぅ」

母は困ったふうに友達との電話で話すが、どこか自慢気だった。

「あなたはだめ。お姉さんはいくら外で遊んでこようと馬鹿なことはしないから。一緒にいる仲間もみんな優秀だもの、安心だわ。あなたはだめ。」

どうしてお姉さんは自由で私には厳しい規律があるのかと問えばそう言った。

なるほど。なんとなく理解できた。

そして私のことを友達に話すときは

「うん、そうね。下の子はお勉強はできないけど真面目よ、あんまりうろちょろどっか行かないもの」

それがやっぱり自慢げなのを聞きながら嬉しかった。

自分のアイデンティティはそれだな。

真面目はいいこと。私の唯一の自慢できるところ。

そこをはみ出さないようにしてきたし、さらに磨きをかけるよう意識した。

ここまで書いてきて私の考える真面目って言うのは世間に迷惑をかけないとか、自分で決めた基準を守るとかではなく、両親の好みから外れた行動はしないという意味なんだと気がつき呆然とする。

ちっちゃいちっちゃい価値基準に自分を照らし合わせ、それを守ることで自分自身が安心する。

本当はこれやってみたい、本当はこんなのちっとも興味ない。

でも親の受けの良さそうな道を進む。

「親の言いなりじゃなく、自分の考えを貫けよ」

そう言ってくれた男の子に

「違う、親の価値観に従うというのが私の決めた生き方なの」

と本気で答えていた。

「政治家の娘みたいだな」

彼はそう驚いていた。

私に染みついた真面目は必死さや精一杯とか、そんな張り詰めたものがある。

それを守っていないと不安になり、自分がダメになっていくのではないかと気持ちがワサワサする。

私はそんなにキチンとしてない。

キチンとしてない人だからいっつも「ちゃんとキチンとしてるかしら」と自分をジャッジする。

その物差しは誰のものだったんだろう。

 

さて。

私は馬鹿なんだもの。

追い詰められて切羽詰まってだけど、せっかく夫にも母にも姉にもべえべえ泣いて、情緒不安定で馬鹿馬鹿しい間抜けな自分の正体を公開したんだもの。

今が変容のとき。

52歳。

ちゃんとした人でいなくちゃはやめる。

ちゃんとしてない私の方が私は好みかもしれない。

というかどう誤魔化そうとそれが私。

 

今日は冬至

ちゃんとしてない私の家は20日に柚子湯に入っている。

間違えたのだ。

柚子はまだある。今夜も入れよう。

柚子湯すらもちゃんとできない自分が愛おしい。