ラジオから溢れてきたback numberの曲にキュンっと切なくなった自分が嬉しい。
戻ってきた。
あの感覚が戻ってきたってことは自分が戻ってきたってこと。
中学の頃、私は友達と訳のわからんポエムを帳面に書いては見せ合った。
学校の帰り、ほっそいほっそい路地の定位置で「では」とカバンから出し交換する。
お互い興味を持つものも性格も違うので相手のものが新鮮で面白いものだから真剣に褒め合う。そして互いにすっかり気分良くなり、また創作意欲に燃える。
典型的なちょっと危ない二人だったのかもしれない。
学校では運動神経抜群でけろっとしている彼女が意外と乙女チックなものを、そしてぼんやり地味な私もバリバリに乙女チックを大真面目に書き留めた。
あのノートはどこいったろう。処分したろうな。小学生の時の思い出箱を一度確認しないとならない。
当時もこのノートの存在は家族にも隠していたがどうだろう。母は子供の机の中もカバンの中もこっそり覗く人だったから知っていたかもしれない。
ある時母が
「あなたはお姉さんみたいに本を読まないから、書くものも薄っぺらいのよ」
と私の宿題の作文を読んで言った。
そうか。項垂れているところにもう一発。強烈なのが加わった。
「なんだか安っぽいものばかり書くから」
カーッと恥ずかしかったのを覚えている。
そこで読書を猛烈に始めたといけば母の狙いは大当たりだったのだろうが、馬鹿な末娘は思い切り解釈を誤り、なぜかロマンチックを封印する方向に向かった。
神様とか天使とか、切ない恋愛ものとか、わかりやすい可愛らしいものは低俗と理解した。
母と姉が好む、自分にはよくわからないが世の中で高く評価されているものはどれも渋い。
もしくはシニカル。もしくは高尚。
絵画ならルノワール、舞台なら宝塚にうっとりすれば「浅い」と笑われる。
今にして思えば私の好む世界をいいじゃないかと、大事にしていればそれでよかったのに間違えた。
選ぶ本、観に行く展覧会、聴く音楽。
感情的になることも控えた。
いっつも自意識過剰で「頭良さげ」を基準に手に取った。
それらの背伸びは少しは自分を成長させてくれた気もする。
けれどやり方が下手だった。
気がついたら、うっかり自分が何を好きで何に感動するのかわからなくなっていた。
テレビも映画もドラマもお笑いも、全て、何も感じない。
気難しい女になっちゃったなあ。
大人になった私はそんな自分がちょっと寂しかった。
一周回ってという表現を最近よく聞くが、まさに一周回って戻ってきた。
グランマ・モーゼスも二人からしてみると「あれは芸術じゃない」ものらしい。
「あれは普通の主婦がおばあさんになってから描き始めた絵が素晴らしいというストーリーがいいのよ」
それでもいいじゃないか。そうだとしてもあの絵はなぜか胸を打つ。
私の胸を打つものが私の宝物。
それがなんであろうとキュンとできることの方がどれほどいいか。
きゅんが戻ってきた。
今のところ私の流行りはYouTubeでペリー・コモの昔の動画をうっとり聴き入ることだ。
わかりやすく、優しいロマンチックな甘い声。
うっとりできる自分が好き。