神保町に行く。
夫と、息子二人揃って出社なんてそうあることじゃない。
天気よく乾いた風も気持ちいい。
こんな日はすずらん通りをぶらっと歩きたい。
歩くだけでいい。
中学から結婚するまで住んでいた。ただあの独特の、職業と学びと飲食とカルチャーとちょっとのオタクっぽさの入り混じった空気の中に溶け込みたい。
できたら喫茶店で買ったばかりの本を広げるなんてやりたいが、そこは流れにまかせよう。
疲れてもう帰りたくなってきているのに、「まだお茶していないっ」とウロウロ自分一人でもくつろげそうで雰囲気のいい店を求め彷徨い、疲れ果てる。これまで何度このパターンを踏んで楽しいはずの1日をガッカリした日にしたことだろう。
一人街歩きをしてどこかで軽くひと休みっていうのを余裕で楽しめるほど、今の私は世慣れていないし、体力もない。
ハードルは低く。
目的は、行って空気を吸う、それでよし。
いつもの地下鉄の出口を上り、昔、岩波ブックセンターだったところに寄る。確か神保町ブックセンターと名前を変え、ブックカフェになったと何かで読んだ。
ブックカフェ。憧れるわぁ。今日は下見だけ。
ちなみに私は新しいカフェや喫茶店に一見では入れない。
まず、店の前を通り過ぎならが「へえ、こんなとこ、できたんだ」と認識する。
これを何度か繰り返す。
ホームページがあるようなところだと、そのサイトにいき、店内の様子やメニュー、特に店員さんと客層の雰囲気を探る。これも何度もやる。
そうして、実際にその店の前をまた通りかかったとき、勇気を出して中に入ってみる。
食事はもちろんできない。とりあえずコーヒーだけ頼み、おとなしく本を読んで、出る。
くつろげたなら、次回がある。
二度目からはいきなり図々しく、長居し、iPadを広げ、常連ぶる。
今回はこの、初店内探訪を勇気を持ってする、の段階。
ただの本屋だというのに、カフェ併設となった途端そこは緊張するところになる。
外観も間取りも中学の頃と変わらない。しかし入り口右脇にソフトクリームの看板が立ち、カウンターがある。コーヒー、カレー、パスタ、小さなケーキ。それとソフトクリーム。
ここは昔、岩波を中心に、ちょっとピリリと固いものを扱う店だった。雑誌やコミック、芸能人の書いた本、ライトノベルはない。その代わり大人だけでなく子供向けにも、政治や宗教、職業、絵画などをわかりやすく教えるシリーズや、古典的な名作、いわゆる良書が充実している。
品揃えは変わっていなかった。
ただ、変わったのは訪れた私の方で、その昔「この本屋、つまんない」と遠ざけていたくせに、50を過ぎた今になってやっと、味わい深く興味深い本ばかりあると気分が高揚していること。
コロナ禍の日々を綴った日記がいくつかあった。
知らない作家だったが、直木賞もとっている若い女性の一人暮らし。東京で彼女が感じたことが淡々とただ、記録されている。
欲しい。
この本を手に取って、腰掛け、しばらく読み耽りたい。
中央に理想的な柔らかそうなソファ。壁ぞいにはちょっと窪まったところにテーブルと椅子がおかれ、まるで小動物の巣のような小さなプライベート空間。仕事の打ち合わせなのか、休み時間なのか、ほどよい談笑で緩く賑わう飲食スペース。
一人読者に没頭する青年がいた。憧れる。
私もここに溶け込み本を読みたい。
システムがわからない。確か事前に調べたところによると店内飲食できるとあった。が、全体像が謎だ。店員さんに聞こうか。いや、でも聞いたら利用せねばとプレッシャーになる。
壁に張り紙があった。
読むだけ、食べるだけ、飲むだけOK,
イラスト付きで書いてあるのを読み解くと、買ってなくても、ここでコーヒー頼まなくても、店内の本を読んでいいってことだろうか。
そんな天国みたいなこと、許されていいのっ?
本棚の隙間からお客さんを観察するがわからない。その本買ったの?持ち込み?どうなのっ?
たしかに、立ち読み客はいない。
多分そうなのだろう。買わなくていいから立ち読みで長居しないでね・・ってことなのだろう。
ドキドキしてきたので店を出た。
今日はここまで。これがやっとだ。
そうだそうだ。いい気分になりたくてやってきたのに、緊張疲れしてどうする。
馴染みきった道を進む。すずらん通り、裏路地の「さぼうる」、「ミロンガ」。表通りの歩道に並ぶ古書。書泉グランデ、東京堂。そして最後、三省堂で安心して立ち読みをする。
二冊、買う。
レジに向かってびっくりした。
ここでもかっ、セルフレジ!
店員のいるカウンターよりずっと大きなスペースを占めている。まだ導入したばかりなのか手こずっている人に駆け寄り指導するための店員が一名、立って全体を見渡している。
スーパーでの練習が役に立つ時が来た。当然のような顔をしてセルフレジに向かった。
背後で例の男性店員がじっと見つめているのがわかる。
見ないでくれぇ。視線を感じると落ち着かない。
会計の段になって「あ」と思う。しまった。これは図書カード使えない。
しかし今更、「あのう」とあの人を呼ぶのも煩わしい。きっとキャンセルの処理をして、あっちのカウンターに並び直してくださいと説明されるのだ。
ふふん、ま、いいわ。・・ということにして、カードで済ませた。
時計を見ると1時20分。
どうする、この本を持ってどこかで遅いランチとか、やってみるか。それがよくあるお一人神保町コースの王道だ。
無理無理無理無理。
帰ろう。疲れた。
足も脳も、心も、疲れた。
帰ろう帰ろう。
神保町の空気は吸った。存分に浸った。
帰りの電車の中でコンビニで買った飴玉を舐めながら買ったばかりの本を開く。
小さな目標ができた。
いつか、神保町ブックセンターでまったりくつろごう。常連ぶって。それができるようになるまで、あのコロナ日記の本がありますように。