褒めちゃった

自分で自分を褒めましょう。自己肯定感を高めるにはという問いによくそんなのを見聞きする。

そのたびに「そんなこと恥ずかしくてできない」と思っていた。

小さなことでいいから、丁寧に拾って自分を認めてあげましょう。自分を愛するとはそういうことです。

ちゃんと起きて朝ごはんを作ってる私って偉い!とか、今日もちゃんと掃除した、偉い!とか。

小っ恥ずかしくて、言えない。

何より自分よりいつも周りが立派に見えてしまうものだから、その程度のことをいちいち褒めるのは如何にも、自分を励ますためにしている演技のようで白けてしまう。

それでも最近、自分という人間をトータルで見ることができるようになりつつある。

ものすごっくダメなところと、まあまあのところ、わりかし良いと思えるところ、とコンプレックスだらけの私の中身にもそれなりに多面がある。

そして「ものすごっく劣っているところ」だけに焦点を当て、私ってダメなやつと常に思いながら生きている。

シカゴファイヤのドラマを、いい楽しみができたと喜んで連日観ていると、ドラマ鑑賞にもコツというものがあるのか、感じることが少しずつ変わってきた。

初めは「この人、いい人?悪い人?」「こいつ、やなやつ」などと、キャラクター全員を無意識のうちに区分していた。

この人は真面目でいい人。この人はいっつも場の空気を読まなくてイライラさせる人。この人はすぐ喧嘩するから・・。

自分の価値観で納得できる行動をする人、素敵と思うことをする人がいい人に分けられ、そうでない問題ばかり起こす人はやな奴となる。

短絡的というか。平べったい思考というか。

しかし、シーズン6までずっと見続けていると、それぞれの悲しみ、怒り、喜び、が見えてくる。

作り物だからかもしれないが、どの人物にも光を当てたエピソードがちゃんと用意されている。

いっつもカッコいいはずの人が情けなく酒浸りになったり。女性に逃げたり。

実力以上に自分を見せようと変な自己主張するやつだと嫌っていた人が、おおらかで強い男だと思えたり。

悪が悪ではなく、善人がやらかしたり。

 

当たり前なのだ。

人って凸凹しているものなのだ。

そして凸凹凸凹しつつ、常に微妙に細胞分裂を繰り返し、経験と環境によって変化もしていく。

この人はこういう人、なんて括れない。

全員、みんな、一人残らず、そうなんだ。

散々苦しんできた私の「自分に自信がない」ってやつも、そう考えると、少し、楽になる。

確かに、ダメなところ満載だけど、どっかきっと自分じゃ気がついてないいいとこもあるはず。

もしかしたら、それを探すのが、「自分のことを声に出して褒める」ってことなのかもしれない。

 

姉が今日、仕事上、ちょっとめんどくさい面談を受けている。

長女命の母はそれが可哀想で心配で落ち着かない。その上、今日の午前中、体操教室に行って疲れ果てている。

姉を励ますお菜をさしいれてやろうか。母はそうしてやりたいけどその体力が残っていない。

それでもおそらく娘可愛さで無理してでも台所に立つだろう。

自分の家には作り置きがたくさんあるからうちの夕飯は作る必要は無いんだが。

暑い。しんどい。

・・・。

あれこれ考えたり迷っている方がめんどくさい、ええいっ。スーパーに行き、スイカと鶏のササミを買ってきた。

姉の好物のササミのフライをたくさん揚げ、母の好物のスイカと一緒に持っていった。

「わあ、ありがと、お姉さん、これ大好きなのよ」

知ってます。だから作ったんだよ。今日は疲れて帰ってくるだろうから。とは言わなかった。あくまでも我が家の夕飯のお裾分けということにした。わざわざそのために作ったと聞けば負担になる。

「あとこれはお母さんに。スイカ。お姉さんが帰ってくるまでに元気になっておかないとね」

私も案外、いいとこあるじゃないの。

褒めてみたら意外と満足。