この一ヶ月ほど、それまで知らなかった大阪の女性漫才師を見つけ地味にハマっている。
出演したラジオもテレビも、昔のネタも、ユーチューブや動画アーカイブを駆使し追いかけている。
二人の騒がしいようで所々に見受けられる真面目さと優しさ、40代主婦でもありながらちゃんと併せ持つ女性としての瑞々しさ、何より個人を傷つけることのないユーモアが心地よい。
よく、元気をもらうという表現をするが、まさにその言葉通り。
二人の笑い声弾ける会話を聞いていると、知らず知らず「私ももっともっと楽しく生きられるかも」と、小さく勇気の素のような光が灯る・・・気がする。
これまで寝る時はいつも博多大吉先生のラジオ番組のミックスリストを聴いていた。何度も何度も聴いているので内容はもう覚えている。それでもやすともさん達と同様、優しく攻撃性のない笑いが子守唄がわりで暗い部屋の中、安心して目を閉じるのだった。
それに代わって今、毎晩枕元でおしゃべりを聞かせてくれているのが、海原やすよともこさんたちなのである。
姉妹だから互いの幼少期の頃から現在の家庭のことまで、面白おかしくケラケラ笑いながら、じゃれあうように会話が弾む。
悩みも心配事も、家のリビングでこぼしあっているかのような、本音と冗談に二人の仲の良さを感じ、平和な気持ちのまま、眠りにつく。
コロナがおさまったら、いつか、なんばグランド花月という劇場に生の二人の漫才を観に行きたいなあ。
出不精の私がそんなことまで思うようになっていた。
昨夜も二人の大阪のテレビ番組を観ていた。
ゲストとの会話の中で、知らない芸人さんの名前が出てきたので、自分も会話に加わりたいとインターネットで調べた。
そこに「やすよともこ」という文字もあったのでつられてそこをクリックした。
あの二人、面白いよね、幸せな気持ちになるよね、おしゃれだよね、素敵だよねと、共感しあっている人達のところに飛ぶものだとばかり思って仲間と共有したくていってみた。
しかしトップにあった記事には「嫌い」という単語だった。
なんで嫌いなの、どこが嫌いなの、まぁそんな人もいるかぁ。
よせばいいのに、読んだ。
そこには容姿を侮辱する発言や、番組内での振る舞いへの意地悪な感想が、ずらずらと書き込まれていた。
あまりの衝撃に、一人くらいは反論する人はいないのかと更に読み進む。
しかし、そうだそうだと、擁護する者はいない。
なんで?なんで?
言葉の刃がグサグサと刺さってくる。自分に向けられているような混乱が起こった。
この意地悪い目が私に向けられたら。
この人たちが私のことを見つけたら。
あんなに素敵だと思う女性がこんな言われるんだったらと思うと、恐ろしくなる。
何より悲しかったのは、そっと大切にしていた世界が大勢に否定されたことだった。
この痛みは二人のために傷ついたものではなかった。
「楽しんどるか?『やすともタイム』やっとんのか」
そこにやってきた息子に、救いを求め、このことを話した。
「それがさ・・今、偶然見かけたサイトで、二人のものすごい悪口を大勢の人が書き込んでるの見て沈んでるとこ。他の人は全く思いもしなかった見方で人を見るんだなあと、衝撃」
「そんなとこに書き込む奴らはろくなもんじゃない、いるんだよ、悪口を書いてみんなの気を引きたがる構ってちゃんってのが、だいたいなんでそんなの読むんだよ、ほっとけ。やすとも最高じゃねえか、わからん奴らはほっとけ」
だってそんなサイトがあるって知らなかったんだもーんと、いじけた素振りに「くだらん」と言い残し、息子は風呂場に消えた。
くだらん。
ありがとう。それ、言って欲しかったんだよ、誰かに。
一晩たって、こうして書いて、やっと、立ち直ってきた。
子供の頃から夢中になっているテレビドラマや漫画や本、一人遊びをことごとく、くだらないものしか好きにならないと、頭がよく高尚な趣味の姉と比べられた後遺症かもしれない。
自分が好きと思うものまで誰かに共感してもらえないと深く落ち込むというのは、我ながら情けない。
自分が好きならそれでいい。なんか知らないけど好きなんだ。それだけでいいじゃないか。
人の脳味噌の中まで気にしない。
私が私である意味がなくなっちゃう。